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能 弁

我が国の外交史を語る時、この方を外すわけにはいきません。

今日はその

         ようすけ        

    松岡 洋右 元外務大臣


の命日にあたります。


       


松岡氏は1880(明治13)年、現在の山口県光市に廻船問屋 『今五』 の四男として生まれました。

10歳の時に警察署長とかけあって中止と決まった祭りを復活させたという逸話を残す彼は、幼少時から頭脳明晰かつ能弁で大人からも一目置かれていたとのこと。

しかし11歳の時、
兄たちの遊蕩によって家業が傾いたため、彼は現地で成功を収めた親戚を頼って12歳の時にアメリカへ留学。

(その留学費用を、母親と共に親戚の家を借り回るという辛酸を舐めています。)


幸いにも心優しいペパリッジ夫人の世話になることができ、アメリカ人の影響を受けキリスト教に入信しましたが、一方で人種差別も受けた経験から、

「アメリカ人には、たとえ脅されても自分が正しい場合は道を譲ってはならない。 
力に力で対抗する事によって、はじめて真の親友となれる。」

という対米意識を醸成しました。

1900年にオレゴン大学を卒業し、母親が病気になったため帰国すると独学で外交官試験を目指し、見事首席で合格。


外務省入省後は、上海や関東都督府などに赴任。

ロシア・アメリカ勤務を経て、寺内内閣時に総理大臣秘書官兼外務秘書官となり、シベリア出兵に深く関与。

更に1919年のパリ講和会議に随員として派遣された際には得意の英語で日本政府のスポークスマンとして西園寺全権をも唸らせる活躍をすると同時に、後に深く関わることとなる近衛文麿と出会いました。

しかし自らの意志で世の中を動かしてみたいと願う彼は官僚主義が蔓延る外務省に嫌気がさし、政治家を目指して41歳の時に退官。

彼の能力を高く買っていた早川千吉郎社長に請われて満鉄の理事に転じ、
副総裁に就任した後1930年に満鉄を退職すると、同年2月の衆院選に山口2区から立候補し当選、念願の代議士に。

そして翌1931年に勃発した満州事変を受け、国際連盟が派遣したリットン調査団が満州を国際管理下に置くことを求める報告書を提出したことに反発した日本政府は、満州事情を熟知し英語が闊達かつ能弁な彼に白羽の矢を立て、日本首席全権として派遣します。

その期待に応え、松岡全権は国連総会において原稿なしで1時間20分の大演説を行い、各国代表から喝采を浴びます。

しかしその喝采はあくまで彼の英語力に対してのみ・・・採決では賛成42・反対1(日本)・棄権1の圧倒的多数で報告書は採決され、松岡全権は最後の演説を行った後、そのまま席に戻らず代表団と共に退場。


       

               議場を退席する松岡全権

国連での演説は国民に好評だったものの、これ以降日本は国際社会での孤立を深めていきました。


彼はその後議員を辞職し、再び満鉄に入り総裁に就任。

〝二機三介〟の一人として権力をふるいましたが、1940年に指名されて近衛内閣の外務大臣に。


「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません」


と大見得を切り、イギリス特命全権大使・重光葵以外の主要外交官40数名を更迭するという大ナタを振るいました。


そして元々ドイツ人嫌いだったにもかかわらず、軍部の説得工作を受けた彼は、吉田茂らの反対を押し切って1940年9月に日独伊三国協定を締結。

更に1941年3月には日ソ中立条約の電撃的成立に尽力しました。


※しかしこの条約締結は、英チャーチルからもたらされた「ヒトラーは近いうちに必ずソ連と開戦する」という情報を無視してのもの。

もしその忠告を受け入れていれば、歴史は大きく変わったかも・・・。


       

           ドイツ外相と車上で談笑する松岡外相


ソ連との中立条約をまとめ意気揚々と帰国した彼でしたが、自分の外遊中に日米交渉が進められていたことに激怒。

その交渉に外相として関わり始めますが、彼は元々イギリスとの戦争は不可避でもアメリカとの開戦は望んでおらず、また開戦するはずがないと考えていたようです。


しかし近衛首相との関係は急速に冷え、1941年7月に近衛内閣が(松岡外相を外すために)総辞職し、松岡抜きの第3次近衛内閣が発足。


直後アメリカとの関係は急速に悪化し、その5ヶ月後に日米は開戦に至りますが、その際周囲に

「三国同盟は僕一生の不覚。 死んでも死にきれない。 陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」

と号泣したと伝えられていますが、同時に真珠湾攻撃成功の報を聞き、〝欣喜雀躍〟したとも。

その後結核に罹り別人のようにやせ細った彼は、敗戦後GHQにA級戦犯として逮捕されされ1回は法廷に立ったものの症状が悪化。


巣鴨プリズンから駐留アメリカ病院から東大病院に移された後、1946(昭和21)年6月27日に66歳でこの世を去りました。

意見に相違はあったものの吉田茂氏とは親交があったそうですが、その一方で昭和天皇には大変嫌われていたそうな。

とにかく喋り出したら止まらない、「僕は誰にも議論で負けたことがない」 と自負し、「ヒトラーに臆することなく対談できたのはソ連のモロトフ外相と東洋の使者マツオカだけだった」と通訳に言わしめた彼の饒舌ぶりが、却って昭和天皇の癇に障ったのかもしれません。


明末の碩学・呂新吾は人間的な魅力について

深沈厚重ナルハ是レ第一等ノ美質。 

 磊落豪雄ナルハ是レ第ニ等ノ美質。 

 聡明才弁ナルハ是レ第三等ノ美質。

と述べており、どんなに聡明でもおしゃべりは魅力に乏しいと位置付けていることを、彼が証明しているのかも・・・。


彼の外交手腕と決断に関しては、こちらの書籍でじっくりと再検証していただきたいと思います。


 『松岡洋右 悲劇の外交官 (豊田譲・著 新潮社・刊)

結果論でいろいろ批判は出来ますが、ヒトラー・ムッサリーニ・スターリンという錚々たる相手と直接互角に渡り合った外相としての能力・力量は、遺憾砲しか撃てない現外相とは比較にならないでしょう。

良くも悪くも日本の命運を決した外交家であったことだけは、確かだと思います。



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