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深謀遠慮

今日は、開国など激動の時代に若くして老中首座の地位に就き、江戸幕府末期を支えた

 阿部 正弘

の命日・没後160周年にあたります。

彼は1819(文政2)年、備後福山藩(現在の広島県南部)第5代藩主・阿部正精の五男として江戸・西の丸屋敷で生まれました。

彼が6歳の時に父が死去し兄・正寧が家督を継ぎましたが、その兄が病弱だったため、それから10年後・18歳になったばかりの正弘が家督を引き継いで第7代藩主に。

10歳の頃より儒学を学び、馬術・槍術で身体を鍛えた文武両道の正弘は、第12代将軍・家慶に目をかけられ、(城中における礼式を管理する)奏者番、寺社奉行と出世し、1843(天保9)年には弱冠25歳で老中に抜擢。

天保の改革を行った水野忠邦が外交問題の紛糾により老中首座に復帰すると、正弘はそれに異を唱え、彼の取り巻きを処分した上で忠邦を罷免させ、1845(弘化2)年に自らが老中首座に就任。

しかし時代はそれまでにないほど激しく揺れ動きだします。


       

翌1846年にはアメリカ艦隊司令官ビドルが相模湾に、更に7年後の1853年にはペリーがフィメモア大統領の親書を携えて浦賀に来航。

更にロシアのプチャーチンも長崎にやって来て、開国・通商を要求。

正弘は時間をかけて朝廷や諸藩の意見に耳を傾けた上で、1854(嘉永7)年に再来日したペリーと日米和親条約を締結し、約200年に渡った鎖国政策に終止符を打ちました。

しかし将軍・斉昭の圧力により開国派の老中2名を罷免したことで井伊直弼と衝突した正弘は、開国派の堀田正睦を老中に起用して首座を譲ります。

そして1857(安政4)年6月17日・・・正弘は老中職のまま、37歳の若さで急死。

死因については肝臓がん説、過労死説、暗殺説など複数囁かれているものの、はっきりしたことは分かっていません。

個人的には、激務による過労死説を取りたいところですが・・・。

自らの領地には生涯で僅か1度しか入らず、人生の殆どを幕政に捧げた正弘ですが、その評価としては優柔不断とか八方美人という指摘もあります。

それは正弘が自分の意見を述べることが殆ど無かった故のものですが、彼自身も

「自分の意見を述べてもし失言したら、それを言質に取られてしまう。 だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い悪しきを捨てようと心がけている。」

と述べているように、聞く姿勢に徹したから。

もし開国か攘夷かの国策大事の時に、イケイケで突き進む信長タイプのリーダーだったら、大きく方針を間違える危険性が大きかったはず。

開国を推し進めながら、その一方で江戸を守るべくお台場の建設を伊豆韮山代官・江川英龍に命じたのも、彼でした。

 ※お台場に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11764142015.html

むしろ調整熟慮型・慎重居士の正弘だったからこそ、ソフトランディングできたのでは・・・と私は思います。

だからこそ、彼のストレスは相当のものだったはずであり、私が過労死説を取るのもそれが理由なんです。

そんな正弘の生涯を知りたい方には、この本がお勧め。


『阿部正弘  日本を救った幕末の大政治家

                 (祖父江一郎・著 PHP文庫・刊)


        

現代の政治にも十分通用する政策・人事の駆け引きが、実に面白い歴史読本です。

開国という政策の大転換を実現し、日の丸を日本国共通の船舶旗(日本惣船印)に決定、一方で勝海舟を登用して長崎海軍伝習所を作って富国強兵の道筋を作り、また 『遠山の金さん』 のモデルとなった北町(後に南町)奉行・遠山影元やあの二宮尊徳を重用した、若き政治家の手腕をお確かめください。



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