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大 師

『弘法大師』 は真言宗の開祖・空海のことですが、彼より7歳年上で仏教界における最大のライバル(というか犬猿の仲)だったのが、

 最 澄

今日は、この我が国における天台宗の開祖・『伝教大師』 の命日にあたります。


        


最澄は766(天平神護2)年(※767年説あり)に、現在の滋賀県坂本に三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として生まれ、幼名を広野(ひろの)と言いました。

幼少の頃から聡明だったという彼は、仏教を深く信仰していた両親の影響で早くも12歳の時に近江の国分寺・行表の弟子となり、14歳で得度して名を最澄に改め、17歳で東大寺戒壇院で具足戒を受け正式な僧侶に。

そしてその僅か3ヶ月後に 「一乗の体解するまで下山しない」 という誓いを立てて比叡山に山ごもりし、788(延暦7)年に一乗止観院(後の延暦寺・根本中堂)を建立します。


       

                   根 本 中 堂


31歳の時に桓武天皇の内供奉十禅師 (ないぐぶじゅうぜんじ) になった彼は、更に天台大師智顗の教えを極めるべく、同天皇の援助を受け804年に還学生 (げんがくしょう) として唐に渡航。


※同時期、別の船で空海も入唐しています。


天台山に赴いた最澄は修禅寺の湛然の弟子・道邃や仏隴寺の行満に天台教学を学び、また禅林寺の翛然(しゅくねん)から禅の教えを、そして帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受け翌年に帰国。


日本に戻った最澄は 『法華経』 に基づいた〝全ての人が仏になれる〟という天台宗の教えを国内に広めるべく天台法華円宗の設立許可を願い出て、806(延暦25)年に華厳宗・律宗・法相宗などと共に天台宗が公認されました。


とは言え、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければならなかったため、最澄は


「僧侶だけでなく全ての人々を救い共に悟りを得るため、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならない。」

と考え、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇による授戒制度を国に願い出ます。

しかしいつの世にも既存勢力による抵抗はあるもので、最澄の思想は奈良の僧侶達から猛反対に晒され認可されぬまま、今から1,195年前の今日・822(弘仁13)年6月4日に、

「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」
(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)


と遺誡を残し、最澄は56歳で遷化。


悲願であった大乗戒の授戒が許される詔が下されたのは、その7日後のことでした。

彼の死を惜しんだ嵯峨天皇が、翌年に 『延暦寺』 という史上初めて年号を寺の名にすることを許し、また44年後の866(貞観8)念には清和天皇が最澄に〝伝教大師〟の称号を贈ったのです。


その延暦寺で有名なのが788年に一条止観院を建立した時から、

〝明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 
                     光りつたへよ 法(のり)のともしび〟


と最澄が詠んで、「法華経の教えを表し末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで消えることなく比叡山でお守りし全ての世の中を照らすように」と願いを込めた、1,200年余りに渡って光り輝き続ける〝不滅の法灯〟。

※比叡山は1571(元亀2)年に織田信長によって焼き討ちされていますが、法灯は山形県の立石寺(りっしゃくじ)に分灯されており、それを再分灯することによって絶やされずに済みました。


また油を継ぎ足して燃え続けることから〝油断〟という言葉が生まれたとも。

      

うす暗い根本中堂内にに安置された3つの法灯がユラユラと静かに燃える光景は、何とも言えぬ荘厳な雰囲気。

私も訪れたことがありますが、下界との空気の違いを実感しました。

まだ比叡山に行かれたことのない方には、一度は訪問されることをオススメしつつ、天皇が帰依した名僧のご冥福をお祈り致します。笑3



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