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冷 酷

今日は、ヒトラーと同名だから・・・という理由以上に、ナチス・ドイツでユダヤ人問題の最終的解決即ち〝ホロコースト〟に深く関与し、数百万人のユダヤ人を強制収容所に送り虐殺した責任者として悪名高い

 アドルフ・オットー・アイヒマン

    Adolf Otto Eichmann


が処刑された日・・・にあたります。


       

               中佐時代のアイヒマン


アイヒマンは1906年にドイツ帝国のゾーリンゲンで、5人兄弟の長男として生まれました。

父親は電機会社の簿記係を務めていた典型多岐な中産階級の家庭で育った彼は、子供の頃から暗い顔色をしていたため、友人から「ユダヤ人のようだ」などとからかわれていたとか。

あまり成績が良くなかった彼は職業を転々とした後、1932年にオーストリア・ナチ党に入党し、更に親衛隊(SS)に入隊。

その後ドイツに居を移し、ベロニカ・リーベルと結婚。

1934年に親衛隊の情報部(SD)に応募し採用された彼は、程なくユダヤ人担当課に異動し、以来ユダヤ人問題に深く関わることに。


1941年8月頃、ヒトラー総統がヨーロッパ在住のユダヤ人を全て殺害する命令を下したと気化された彼は、各地の毒ガス室を視察するよう命じられ、それを実行。

そして同年11月に親衛隊中佐に昇進した彼は、ゲシュタポ・ユダヤ人課々長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所に列車輸送する最高責任者となり、その後行われた2回のユダヤ人最終解決に関する省庁会議で議長を務めました。

やがてハンガリーに派遣された彼は、アウシュビッツにユダヤ人を続々と送り込みます。

そして戦況が悪化して敗色が濃くなり、親衛隊最高指導者ヒムラーからユダヤ人虐殺を中止するよう命じられてもそれを無視し、虐殺を続けたといわれています。


第二次世界大戦終結後、アイヒマンは一旦アメリカ軍に拘束された者の、偽名を用いて別人になりすまし、まんまと捕虜収容所から脱走。

ドイツ国内で逃亡生活を送った後、1950年に偽装渡航証を使って難民を装い、元ナチス党員が数多く逃亡していたアルゼンチンのブエノスアイレスへ。

同地で約10年にわたり職を転々としながらも家族を呼び寄せて隠遁生活を続けていました。

その彼を執念で見つけ出したのが、イスラエルの諜報機関・モサド。


1957年の段階で彼がアルゼンチンに潜伏しているという情報を掴んだモサドは諜報員をブエノスアイレスに派遣したものの、しばらくは消息を掴めず。

しかし彼の息子が事もあろうにユダヤ人女性交際しており、彼女に血親の素性を話したことから足がついてマークされ、最終的に妻との結婚記念日に花束を買ったことが決め手となり、アイヒマン本人と断定。

モサドはまるでスパイ映画さながらのアイヒマン誘拐&イスラエル送還計画を立案し、実行。

1960年5月21日、イスラエルへの拉致・連行に成功。
イスラエル外相がその事実を公表した際は、世界中が驚きに包まれたとか。

『人道に対する罪』など15の罪で起訴された彼に対する裁判は、翌年4月からイスラエルの首都エルサレムで開始され、国際的に大きな議論を巻き起こしました。

この裁判に関しては、昨年公開された実際の公判シーンも挿入されている映画


『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち

       

の鑑賞をお勧めします。 アイヒマンはこの裁判の中で、

「ヒトラーの『我が闘争』は読んだことがない」
「命令に従っただけで、ユダヤ人迫害は大変遺憾に思う」

などと証言。 また公判中は殆ど感情を表に出さず、アイヒマンではなくあたかもアイスマンのごとくだったそうな。

       
                 
公判中のアイヒマン    


死刑判決を受けてもなお無罪を主張し続けましたが、今から55年前の今日・1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑が執行され、56歳の人生に終止符が打たれました。

※イスラエルでは戦犯以外の死刑執行は法的に存在しないため、これが同国内で執行された史上唯一の法死刑執行なのだそうな。


一見小役人のような彼が史上最悪の大虐殺を指揮したのは、戦争が人間を変えてしまったからなのか?

あるいは生まれつき持っていた残虐性に目覚めたからなのか?

それとも、子供の頃の渾名がトラウマとなっていたのか?

その答えは、もう永遠に分かりません。

あらためて、犠牲となったユダヤ人の冥福をお祈り致します。



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