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蘭 医

「自宅から一番近い病院は、どこ?」と聞かれて、〇〇大学病院とか△△市民病院とか答えられても、そこの医師の名前までスラスラ答えられる方はそうそういないはず。

でもそんな私のような方でも、この医師の名前は学校の授業で習ったことをご記憶のはず。


 杉田 玄白

今日は、この江戸時代を代表する・・・というよりも日本の近代医学の父といってもいい蘭学医の命日・没後200周年にあたります。


         


玄白は1733(享保18)年に若狭国小浜藩(現在の福井県敦賀市)付き医師・杉田玄甫の子として同藩の江戸下屋敷で生まれました。(母は彼を生んだ際に死亡。)

青年期から父の後を継いで医師になるべく奥医の西玄哲から医学を、儒学者の宮瀬竜門から漢学を学び、1752(宝暦2)年に小浜藩医となり、上屋敷勤めに。

5年後、彼は町医者となって江戸・日本橋に開業。

その直後に物産会を主催した平賀源内らとの交流が始まり、そこから蘭学仲間との付き合いが始まったようです。


そして32歳で小浜藩の奧医師となった彼は、その年に江戸にやってきたオランダ商館長一行の宿泊先を平賀源内らと共に訪問し、オランダ語の習得の難しさを知り、一度は断念。

しかしそれから6年後、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語の医学書 『ターヘルアナトミア』 を玄白の元に持ち込むと、それを見た彼は精密な解剖図に驚愕。

藩にかけあって同書を購入すると、中川順庵と、やはり長崎からこの本を持ち帰った前野良沢と3人で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆。

彼らは協力して 『ターヘルアナテミア』 を和訳し、1774(安永3)年に 『解体新書』 として刊行し、同書は将軍家に献上されました。


※但し日本初の腑分けは、それより20年前の1754年に山脇東洋という医師によって為されました。 

これに関する過去記事は、こちら。(↓)
   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11881594525.html

  
             
  『解体新書』 表紙と中身

こうやってご紹介すると、すんなり出版に漕ぎ着けたようですが、実際は悪戦苦闘・四苦八苦の末に生まれた労作でした。

考えてみてください。

ABCも知らない中学生が、たった1年半で専門用語がぎっしり詰まった医学書を翻訳するようなものだったのですから。

まさに日本の医学発展のため・・・その一点をモチベーションに頑張り抜いた玄白は、現代なら間違いなく文化勲章を授与される医学界の功労者といえます。

その苦労は、彼が晩年に回想録として出版した『蘭学事始』を読むと、よく分かります。 『解体新書』 と共に、ご一読をオススメします。

読んでいると、こちらまで身体が熱くなりますョ。
 (2冊とも、講談社学術文庫・刊 ↓)



                 

玄白は 『解体新書』 発表から2年後に再び小浜藩の中屋敷を出て浜町に開業すると同時に 『天真楼』 という医学塾を開き、後進を指導。

江戸一番の名医と評判になり、患者は引きも切らなかったとか。

1805(文化2)年には第11代将軍・家斉に拝謁し薬を献上した玄白は、その2年後に家督を子・伯元に譲り隠居。

1817(文化14)年4月17日に、83歳で大往生を遂げました。

多くの方が病気やケガでお世話になる病院のルーツと言ってもいい蘭学医のご冥福を、あらためてお祈り致します。


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