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侮 蔑

社会問題化している〝いじめ〟は、今に始まったことではありません。

人間の歴史が始まって以来ずっとあったことなのでしょうが・・・今日取り上げるのは、特に日本人特有のムラ社会的というか陰湿ないじめによって人生を狂わされた悲運の女性、

 斎藤 きち さん


この名前はご存じなくても 〝唐人お吉〟 といえばピンと来る方が多いと思いますが、今日は彼女の命日・没後125周年にあたります。

お吉さんは、1841(天保12)年に現在の愛知県南知多町で船大工・斎藤市兵衛の次女として生まれました。

その後一家は伊豆・下田に転居したものの仕事が減って生活が苦しくなったため、彼女は7歳の時に河津城主・向井将の愛妾・村山せんの養女となって三味線などを仕込まれました。

養母せんの死去により14歳で村山家から離れた彼女は芸者となってお吉と名乗ると、アッと言う間に下田一の人気者となりました。

まぁこれだけの美形ですから、それも当然のことだったでしょう。(

           

                 19歳のお吉さん


この人気芸者・お吉さんの運命を変えたのは、初代アメリカ総領事として来日した、タウンゼント・ハリスでした。


下田・玉泉寺を領事館として留まっていたハリスは、慣れない食事や環境のために吐血し体調を崩してしまいます。

そこで通訳のH・ヒュースケンは地元の役人に彼の世話をする看護婦の派遣を打診・・・ところが幕府側は、この時とばかり若い女性を妾として派遣しハリスの取り込みを画策。

そこで白羽の矢が立ったのが、お吉さんだったのです。

彼女は既に婚約者・船大工の鶴松がいたため当初固辞したものの、奉行所の役人から 「承知してくれたら鶴松には苗字帯刀を許し、大工頭の組下にする」 と交換条件を持ち出され、渋々ハリスの許へ。

ところがお吉は腫物があるという理由で (というのは表向きで、ハリスが幕府の策略に気付いたため)、たった3日でお役御免に。


その後も引き続き3ヶ月程 (※この期間については諸説あり) 玉泉寺に通ったお吉さんに対し、当初下田の人々は同情的でした。

ところが幕府から25両もの支度金をもらって羽振りが良くなった彼女を見ているうち、徐々にそれが嫉妬に・・・芸者に戻った彼女を待っていたのは、周囲の冷たい視線でした。

いたたまれなくなった彼女は、松浦武四郎という蝦夷を始め全国を渡り歩いていた武士に誘われて京都へ。

それからの5年間、彼女が何をしていたのかは詳しくは分かっていませんが、明治維新直後の1868年に鶴松と再会した彼女は、横浜で同棲。

3年後に下田に戻って髪結業を始めるも、相変わらず偏見の残る同地での商売は上手くいかなかったようです。

結局鶴松とも別れ芸者に戻ったものの、既にアルコール依存症になっていた彼女は酔って宴席で暴れるなどしたため、たった2年で廃業。

最後は物乞いにまで身を落とし、1890(明治23)年3月27日・・・48歳で身投げをして自ら命を絶ってしまったのです。


しかも人々は自ら引き上げられたお吉さんの遺体を汚らわしいと忌み嫌い、河原に3日間も放置したまま。

気の毒に思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬ると、今度はこの住職が周囲から迫害され、結局彼も下田を去らざるを得なかったとか。

いじめられっ子を庇うと、今度はその子が標的に・・・今、学校で起きているいじめと同じ図式です。


そんな彼女の生涯を悲話を含めて紹介しているのが、こちら。

 『伝承悲話 唐人お吉』 (石垣直樹・著 万来舎・刊)


      

国のために我が身を殉じた悲運の人・お吉さんに対し、あの新渡戸稲造は

〝からくさの 浮き名のもとに 枯れ果てし 君が心は やまとなでしこ〟


という歌を残しています。

また 『唐人』 とは、「お前は日本人ではない」 という意味の蔑称。

私は今後二度とお吉さんのことを 『唐人』 と呼ばないことを誓いつつ、冥福を祈りたいと思います。笑3




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