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内大臣

お内裏様とお雛様~・・・なんてひな祭りの歌とは全く関係ありませんし、右大臣でも左大臣でもありません。あせあせ

今日は、あまり歴史の表舞台には立たずとも、昭和史に大きく関わった日本最後の内大臣、


 木戸 幸一

の命日・没後40周年にあたります。

彼は1889(明治22)年に東京・赤坂に生まれました。
姓からお分かりの通り、彼は明治の元勲・木戸孝允の孫で、父・木戸孝正侯爵の長男。

学習院高等科から京都帝大・法科大学政治学科に進学し、卒業後は農商務省に入省。


工務局工務課長や産業合理局部長を歴任後、父親の死去により1917年8月に侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員に。

そして1930年には、学習院高等科時代の1級下で友人でもあった近衛文麿の抜擢で商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任します。

内大臣府とは、宮中で天皇を補佐し宮廷の文書事務等を所管する政府機関で、彼が赴任する前後から元老に代わって重心会議を主宰するなど、宮中だけでなく政府内にも大きな影響力を持つようになっていました。


そして1936年に起きた 『二・二六事件』 の際、彼は陸軍の統制派と連携して沈静化に成功。

これにより彼は昭和天皇から信任を得たと言われています。


翌1937年に発足した第一次近衛内閣では文部大臣と初代・厚生大臣、更に1939年の平沼内閣では内務大臣を歴任。

そして1940年からの第二次近衛内閣で内大臣となり、昭和天皇(宮中)と内閣の橋渡し・・・というよりも、深く戦前・戦中の政治に関わりました。


     

そして1940年11月に重鎮・西園寺公望が亡くなると、重臣会議を開催して首班指名を行う際には、彼の意向が大きく影響するように。

その彼が日米交渉の行き詰まりによって総辞職した第三次近衛内閣の後継として指名したのが、東條英機でした。

当初は皇族である東久邇宮稔彦王を推す声が大きかったのですが、木戸は

「対米開戦を抑えるには現役陸相であり昭和天皇に対する忠誠心の強い東條を使うしかないし、もし皇族総理の際に万一戦争が起こると天皇に開戦の責任が及びかねない」

と考え、近衛との密談で東條の起用を決定。

しかし彼の目論見とは裏腹に、東條は日米開戦へと舵を切ってしまいました。

もしこの時東條以外の人材を首相の座に就ければ、歴史は大きく変わったかもしれません。

そして戦局が悪化すると、今度は和平派閣僚と結託して東條を見限り、和平工作に傾倒。

陸軍の徹底抗戦派から睨まれ、8月15日には佐々木武雄・陸軍大尉を隊長とする〝国民神風隊〟によって自宅を焼き討ちされました。(※宮城事件)

終戦後は彼もA級戦犯として逮捕・拘留され極東軍事裁判で裁かれましたが、彼が1930(昭和5)~45(昭和20)年まで書き記した 『木戸日記』 を証拠品として提出し、昭和天皇及び自身が戦争回避を望んでいたかを主張。

結局彼自身はこれが功奏してか、判事の多数決で僅か1票差で絞首刑を免れ、終身刑に。

しかし反面この日記は軍人にとって不利な証拠となり、彼は巣鴨拘置所と市ヶ谷の法廷を往復するバスの中で軍人たちからかなり厳しい言葉を投げつけられたようです。

1955年に健康上の理由で仮釈放された後は殆ど表舞台に立つことなく、1977(昭和52)年4月6日、肝硬変により宮内庁病院で87歳でこの世を去りました。

彼が本当にアメリカとの戦争を回避しようと最初から動いたのか、それとも自らの保身のために途中で考えを変えたのか?・・・ 実際のところは分かりません。

彼の日記は昭和史の貴重な資料であることは認めますが、その内容に客観性があるとは言い切れませんし。

少なくとも、政府中枢および昭和天皇のすぐ傍で日本の舵取りに大きく関わったことだけは事実ですが。


近衛-木戸のお友達コンビが、昭和前半の政界に登場した方が良かったか、否か?

その判断は、皆さんに委ねたいと思います。


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