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義 憤
民間人からは、とかく評判の良くない公務員。

しかし過去には、その民間人のために命がけで反乱を起こした(元)役人もいたのです。

その人物が、今からちょうど180年前の今日・1837(天保8)年2月19日に大阪で起こしたのが


 大塩平八郎の乱


日本史で習った記憶がある方も、多いと思います。


大塩平八郎は1793(寛政5)年生まれ。 

大塩家は代々与力を務めた役人一家で、彼自身も8代目の与力となります。


陽明学を学ぶ儒学者であった彼は、非常に謹厳実直かつストイックな性格の持ち主だったようで、奉行所内の不正・汚職を数々内部告発し市民から尊敬される存在だったとか。


しかし (当然のことながら) 奉行所内で煙たがられていた彼は1830年、理解ある上司であった東町奉行・高井実徳が辞任すると後ろ盾がいなくなったことで与力の職を辞し、かねてより自宅で開いていた私塾の経営に専念します。


それから数年後に日本中を襲った天保の大飢饉によって庶民が日々の食糧に困窮する中、大塩は人々の救済を奉行所や豪商に訴えるも無視されたため、彼は自らの蔵書数万冊を全て売り払って600両以上の資金を作り、救援資金に充てたといいます。


    大塩平八郎


しかし当時の東町奉行・跡部良弼 (老中・水野忠邦の実弟) が、買い上げた米を庶民のために使わず新将軍の座に就いた徳川家慶に献呈するに及び、遂に武装蜂起を決意。


(迷惑がかからぬよう)妻と離縁し、銃器を買い付けるなど着々と準備にかかります。


そして江戸幕府に告発状を送り、檄文を市中に撒いて蜂起への参加を促した上で奉行の跡部良弼らを爆死させる計画を立案。


しかし決行予定日の2月19日未明に、内通者が奉行所に通報。


やむなく夕刻に予定していた爆弾テロを諦めた大塩は、同日朝から自宅に火を放ち約300人の町人と共に豪商を襲撃。

しかし所詮は素人集団の悲しさ・・・半日程で幕府軍に鎮圧されてしまいます。


大塩は養子・格之助と共に大阪近郊に潜伏、江戸へ送った訴状の効果を期待しました・・・が、何と肝心の訴状は飛脚によって捨てられ、更にこれを拾った者が箱根の関所に届けたため江戸城にもたらされることはありませんでした。


結局潜伏先も密告により奉行所の知るところとなり、取り囲まれた大塩は自ら爆死。 


遺体は顔の判別すらできない状態だったといいます。


教科書では数行で簡単に扱われていたこの反乱ですが、実は後世に大きな影響を与えました。


彼の書いた檄文はその後密かに書写され全国に出回り、新潟・柏崎での 『生田万の乱』 など〝大塩門弟〟・〝大塩残党〟と名乗る者が各地で騒動を起こすキッカケに。


現代に置きかえると、公務員たる元警察幹部が騒乱罪の首謀者となったこの事件は、幕府にとっては大きな衝撃だったようです。


そして大阪の1/5を火の海にしたにもかかわらず、〝大塩様〟 と人々から圧倒的に支持されていたこともあってか、幕府が残党らを即時に磔などの処罰をしなかったことで大塩生存説など様々な噂が立ち、結果幕府の権威は著しく失墜。


もしこの時代にインターネットやYouTubeがあったら、この騒動は一気に全国に広まり、大きな倒幕運動に発展したことでしょう。


 「公務員が止むに止まれず行動を起こした」 という意味では、かつての尖閣諸島・中国船衝突事件における海上保安官・一色正春氏の〝ビデオ流出騒動〟と似ている気もします。

※一色氏は、現在もFBで情報発信・主張をしておられます。(↓)
  https://www.facebook.com/masaharu.isshiki?fref=ts


江戸幕府はこの反乱から30年後に倒れ、また民主党政権はビデオ流出から2年で崩壊し同党は再び野に下りました。

義憤には、世の中を変える力があるのです。
扇子

 


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