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日 産

・・・と聞くと、今時の若者は自動車メーカーをイメージするでしょうが、戦前は巨大財閥として有名でした。

今日は、その一大コンツェルンの創始者、


 鮎川 義介 

の命日・没後50周年にあたります。


       


鮎川氏は1880(明治13)年に旧長州藩士・鮎川弥八の子として現在の山口市で生まれました。

彼にとって大きかったのは、母親が井上馨の姪だったという、血筋の良さ。
しかし彼は、それを鼻にかけたりふんぞり返ったりはしませんでした。

その井上に 「これからの日本には工業技術が必要」 とエンジニアの道を進むよう進言された鮎川青年は、1903(明治36)年に東京帝大の機械科を卒業すると芝浦製作所に入社し、身分を明かさない条件で日給48銭の機械工に。

しかし休日を利用して80ヶ所以上の工場を見学した結果、国内の技術が全て欧米の模倣であった事に気づいた彼は、本場の技術に触れるべく渡米。

約1年半グルド・カプラー社の工場で働いた彼は、 


「西洋人は体力や腕力で勝っているが、日本人には手先の器用さと動作の機敏さがある。 この長所を発揮すれば、西洋人以上の仕事を成し遂げることが可能」

だと悟ります。


また当時の日本の労働賃金はアメリカの1/5だったことから、同等の労働で同党の製品を作れば輸入製品を駆逐でき、輸送費・関税などの経費をかけても逆に欧米に輸出できると確信。

1910(明治43)年に井上馨の支援を得て現・北九州市戸畑区に戸畑鋳物(現・日立金属)を設立。

同社の好調に気を良くした彼は、その後会社の吸収・合併を重ね、1928(昭和3)年には義弟・久原房之助の経営する破綻寸前だった久原工業の社長に就任し、同社を『日本産業』に改称。
これが後の『日産』コンツェルンの下地となりました。

1933年には三井・三菱・住友の各財閥が将来性・収益性に疑問を持ち自動車産業への参入に尻込みする中、ダットサンの製造権を現在のいすゞ自動車から無償で譲渡され、自動車製造会社を設立。

翌年同社を 『日産自動車製造株式会社』 と改名すると共に、日本鉱業・日立製作所・日産化学・日本冷蔵・日産火災・日産生命・コロムビア・ビクターなど多数の企業を傘下に収め、日産コンツェルンを形成。


     

           1935年当時の日産自動車・横浜工場

1937(昭和12)年当時、三井グループ6社の合計資本が3億5,000万円で従業員数6万人。 三菱グループが7社の合計資本が4億2,000万円で、従業員数が7万4,000人。

これに対して傘下18社の合計資本5億円で、従業員数は9万5,000人だったそうですから、まさに日本最大の財閥だったのです。


更に関東軍の後ろ盾を得た鮎川氏は、満州に進出。

ユダヤ人難民を移住させる『河豚計画』に参画するなど、岸信介・松岡洋右・東条英機・星野直樹各氏らと共に〝二キ三スケ〟と呼ばれ、満洲政財界を統括した五人衆の一人として活躍(暗躍?)。


その後関東軍との関係が悪化して満州重工業の総裁を辞任した彼は、東條内閣の顧問に就任。

そのためもあって、終戦後に戦犯容疑で逮捕され巣鴨拘置所行き。

※この時、同じく収監されていた東條秀樹に、「天皇陛下に責任はない。 自分に開戦の責任があると言わなければ、日本の天皇制はダメになる。」と進言したとか。


幸い容疑は晴れ20ヶ月後に釈放されると、1952年に日産グループ各社から出資を得て中小企業助成会を設立し会長に就任。
戦後復興と中小企業の下支えに尽力しました。

参議院議員にも当選し、岸内閣の経済最高顧問や東洋大学の学長も務めた彼が、急性肺炎のため86歳の生涯を閉じたのは、1967(昭和42)年2月13日のこと。

いくら血筋が良かったとはいえ、昭和の激動期に一代にして三井・三菱をしのぐ大財閥を育て上げた手腕・・・決断力と行動力は、見事なもの。

そんな彼に興味のある方には、この書籍をお勧めします。


 『鮎川義介 日産コンツェルンを作った男』 

                        (堀 雅昭・著 弦書房・刊)


       

稀代の経営者が、自ら作り上げた日産自動車で外国人社長が法外な年俸をもらい大量リストラで経営危機を乗り切ったことを、天国からどんな気持ちで見つめていたのか?

その言葉、是非聞いてみたいと思うのは、きっと私だけではないでしょうネ。


 


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