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助太刀

一週間前の拙ブログで、最年長の赤穂浪士・堀部弥兵衛金丸に関して取り上げましたが、今日は彼の養子となった


                たけつね

 堀部安兵衛武庸

が主役です。

何故なら、今から323年前の今日・1694(元禄7)年2月11日に、かの有名な〝高田馬場の決闘〟があったから。


菅野六郎左衛門と村上庄左衛門の両者が、ふとした諍いから斬り合いとなったわけですが、ここで助太刀として登場したのが、堀部安兵衛でした。 

忠臣蔵では大石内蔵助に次いで人気が高い安兵衛ですが・・・実は彼、元々赤穂藩士だったわけではありません。


越後国新発田藩家臣・中山弥次右衛門の長男として1670(寛文10)年に生まれたのですが、母親は彼を生んだ直後に死亡。 


父も櫓失火の責任を取らされて藩を追われ、程なくして死亡するという不幸に見舞われます。


親戚を転々とした後、19歳で江戸に出た安兵衛は堀内源太左衛門の道場に入門。 


めきめき頭角を現し、免許皆伝となって出稽古で身を立てるまでになったようです。


道場の同門であり、叔父・甥の義理を結んでいたのが前出の菅野六郎左衛門。

その叔父の助太刀をするため、安兵衛が10里余りを走りに走って高田馬場に駆けつけた・・・などと講談等では語られています。

しかし 『細川公爵家文庫』 所蔵の 『二月二十一日 高田馬場喧嘩之事』 (※中山安兵衛が提出した報告始末書) によると、安兵衛は最初から菅野六郎左衛門と同道し、相手の村上方3名を斬殺した模様。


残念ながら、助太刀した菅野六郎左衛門も帰路絶命したそうですが・・・。


          
ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-堀部安兵衛


この果し合いの結末が、〝安兵衛の18人斬り〟と話が大きく膨らんで江戸中に広まり、その評判を聞きつけた堀部弥兵衛が三顧の礼を以って安兵衛との養子縁組を熱望。

「中山姓を変えずとも結構」 とまで言われ、その熱意に応える形で弥兵衛の娘・ほりと結婚、婿養子となったのです。


しかしその後、弥兵衛の隠居に伴い家督相続した際には、なぜか堀部姓に変えたのですが・・・。


そしてあの刃傷・松の廊下から端を発した赤穂浪士討ち入りに加わった安兵衛は、33歳で切腹して果てたのです。


一説には 〝呑んべ安〟 などと大酒飲みの如く言われていますが、実際にはそうではなく、むしろ 『堀部武庸日記』 を遺すほど文才に長けた一角の人物だったようです。


早くに両親を失った彼は、堀部金丸に父親の面影を追うファザコンだったのかも。


血縁でない者の果し合いに助太刀し、婿養子に入った先の仇討ちに命がけで加勢する・・・そんな義に厚い安兵衛の生き様に、人々は共感するのでしょうネ。笑3


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