FC2ブログ
抜 擢
1970年から30年近くの間、水戸黄門と共に毎週月曜・夜8時から悪を懲らしめる正義の味方としてお茶の間の人気を博したのは・・・もうお分かりですョネ。 今日は、その


 大岡越前の日


なのだそうです。

忠相は旗本・大岡忠高の四男として江戸屋敷に生まれ、10歳の時に同族である大岡忠真の養子となり、後に忠真の娘と結婚しました。


5代将軍・綱吉の時代、20歳の時に従兄の起こした事件に連座し閉門処分を受けるも翌年に禁を解かれ、養父・忠真死去により24歳で家督を継ぐことに。


幕府の官僚として着実に出世をして行く忠相ですが、その後の彼の運命を決めたのは、将軍・家宣時代・・・37歳の時に山田奉行(伊勢奉行)を命じられ、紀州に赴任したことでした。


当時紀州藩主だった後の八代将軍・吉宗は、紀州藩に遠慮して領地訴訟を同藩有利に裁いていた過去の奉行と違い公平に判断を下したばかりか、当時違法な漁をしていた吉宗自身をも叱りつけた忠相を、嫌うどころか大いに評価・・・将軍職に就任した後は終始彼を重用したのです。


まさに〝名君、良臣を見抜く〟の図ですネ。

(もっとも、それらの逸話は吉宗が忠相を抜擢した理由として後付で作られたものだという説もありますが・・・。)


そして江戸に戻った忠相が、将軍職に就いた吉宗から程なく南町奉行に任じられたのが、今からちょうど300年前の今日・1717(享保2)年2月3日・・・これが記念日の由来という訳。、

             大岡越前

                 大岡越前歌舞伎浮世絵


これを機に越前守を名乗り、以後19年に渡り南町奉行を務めた忠相は、


 ◆ 町火消組合の創設

 ◆ 目安箱の設置

 ◆ 小石川養生所の創設

 ◆ サツマシモの栽培奨励

 ◆ 賭博の一掃・私娼の廃止

等々、庶民の生活安定のための諸改革を実行します。


ただし、TVドラマ等で登場する〝大岡裁き〟は、後年講談や写本により広まった『大岡政談』が元になっており、その殆どは創作といわれています。


が、こういった話が作られる程に、忠相の仕事ぶりは江戸庶民に絶大な信頼と人気があったのでしょう。


その後60歳で寺社奉行に昇進、72歳で一万石に加増され大名に。


町奉行から大名になったのは、江戸時代では忠相唯一人という極めて異例の大出世だったそうな。

いかに吉宗の信頼が厚かったかが分かります。


享保の改革を推進した吉宗を支えた忠相の実態・・・それは名裁判官というよりも、優秀な経済官僚というべきものだったようです。


その3年後、1751(寛延5)年6月に吉宗が死去。 その葬儀を取り仕切った後、忠相も体調を崩し、吉宗を追うように同年12月19日にこの世を去りました。 享年75歳。


        

                         

 『大岡忠相』 (大石 学・著 吉川弘文館・刊)

吉宗の重用があったとはいえ、忠相の仕事ぶりは凄まじく、毎晩深夜まで奉行所で残業をしていたという記録が残っており、それ故なのか生涯にわたって痔に苦しめられたのだとか。ダメだぁ顔


今後、霞が関で働く官僚の中から痔になるくらい一生懸命国民のために仕事をして、将来 『政談』 が出来るくらいの大人物・・・果たして出るでしょうか?



            人気ブログランキング






スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック