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彷 徨

3つのサイコロを転がす博打・チンチロリンでは、1・2・3は〝ヒ・フ・ミ〟と言って親の倍払いという最悪の出目。

だからと言うわけではないでしょうが、今から115年前の今日・1902(明治35)年1月23日に冬季訓練のため出発した日本陸軍第8師団・青森歩兵第5連隊は、数日後に我が国史上最悪の冬山遭難事故・・・世に言う


 八甲田山雪中行軍遭難事件


を引き起こしてしまいました。

日清戦争時、冬季寒冷地での戦闘で苦戦を強いられた日本軍は、遠からず衝突が予想された対ロシア戦に於いても同様の状況が想定されることから、雪中での軍事行動・行軍方法・服装 の確認を目的として同訓練を実行した、といわれています。


偶然にもこれに先立つ1月20日に出発し【弘前→十和田湖畔→青森】ルートを取った福島大尉率いる弘前第31連隊の38名は無事帰還できたものの、【青森→田代→八戸】ルートで行軍を開始した神成大尉率いる青森第5連隊の総勢201名が、積雪と猛烈な寒さ(-20℃以下)により立ち往生。


190名が死亡し、運よく生還した11名も全員が凍傷にかかり、大部分が四肢・指の切断を余儀なくされる大惨事となったのです。


  


遭難の原因については様々言われていますが、やはり冬山に対する認識の甘さと軽装備が大きかったのではないでしょうか。


実際、全員生還した弘前隊や生き残った第2連隊員の殆どは、炭焼きや〝またぎ〟など冬山経験の豊富な人々だったそうですから。


またちょうどこの時期に日本には寒波が訪れており、各地で史上最低気温を記録・・・青森でも平年より10℃近く低い気温であったことも災いしたと思われます。


この事故については、新田次郎氏の小説 『八甲田山死の彷徨』、及び同書を原作とした映画 『八甲田山』 (1977年)によって、人々の知るところとなりました。


主人公を演じた北大路欣也の、

「天は我々を見放した・・・。」

という絞り出すような名台詞は、当時流行語になったことをご記憶の方も多いでしょう。


    


私自身も小説を読み映画を観ることによって、その過酷な行軍の実態を知った一人です。 (但し、両作品とも事実と違う脚色がなされてはいますが。)


冬の八甲田山がいかに厳しい自然条件なのか・・・それはこの映画のロケを現地で敢行した際、あまりの過酷さに数人のスタッフが逃げ出した、という逸話でも十分伺えます。


そして神成大尉の命を受けて緊急事態の報告のため本隊に戻る途中の後藤房之助伍長 (※発見直後、凍傷により両手足を切断)が、仮死状態で直立不動だったところを救助されたのが1月27日。


この遭難事故の象徴として、彼の銅像が八甲田山中に立てられており、現在も青森の観光ルートに入っています。


        


私も青森支店勤務時には、酸ヶ湯温泉や十和田湖への往復途上、何回も観光でやってきた友人・知人の案内で行きましたが・・・特に冬場、一面の雪景色の中に立つ後藤伍長の姿を見るにつけ、この寒さと豪雪の中を替えの靴下すら持たずに行軍を続けた兵士たちの苦悩をヒシヒシと感じました。


また、この行軍を発案したとされる山口鋠大隊長が事件後拳銃で自決したとされる点についても不審点が指摘され、事件の真相を伏せるため軍部によって暗殺されたとする説も囁かれるなど、多くの謎も残されています。


今でもこの銅像の周辺では、夜になると 「ザッ、ザッ、ザッ」 という足音を立てて軍隊が彷徨しているという怪談話・目撃談が地元では有名。

また3年ほど前には、八甲田山にある別荘から110番通報があり、警官が行ってみると誰もいなかった・・・なんてことが。

もしかしたら、犠牲となった隊員が電話をかけたのかもしれません。


極寒の地で絶命した、名も無き兵士たちの冥福を祈るばかりですが・・・氷点下にもなっていない気温で 「寒い、寒い」 なんて文句を言っていると、彼らが怒って今晩あたり枕元に立つかも? うー ゾクッ




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