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安全第一

先日東京~金沢間が開通し、首都圏と日本海側をますます近くしてくれた北陸新幹線。


日本の交通網整備の象徴ともいえるこの新幹線のスタートが1964(昭和39)年10月、東京五輪開幕直前に開通した東海道新幹線だったことは、皆さんご承知の通り。

小学生時代に東京駅で初めて新幹線を見た時は金属音のような警笛に驚き、また美しい流線型の車体に感動したことを今でも憶えています。

あれから半世紀経った今でも日本の大動脈として活躍するこの新幹線の元祖・〝0系〟を設計したのが、

 島 秀 雄 

今日は、この〝ミスター新幹線〟とも言うべき国鉄を代表する名エンジニアの命日にあたります。


        

島氏は1901(明治34)年に大阪で生まれました。

父・安次郎氏が日本機械学会の会長も務めた鉄道エンジニアだったからか、秀雄氏も1925年東京帝大工学部卒業後鉄道省に入省。

父の直弟子であった朝倉希一氏に師事し、工作局で蒸気機関車の開発に携わりました。

私が子供時代大好きだったD51(デコイチ)やC62(シロクニ)などは、島氏が設計に携わっていたとのこと。

(※後に島氏はD51を 「多くの形式の設計を手掛けた中でも一番の会心作」 と語っています。)


1936年には国鉄の命を受けてアジア・ヨーロッパ・アメリカ大陸の鉄道事情を視察した彼は、1939年に戦前版新幹線ともいうべき電気動力を主体とする 『弾丸列車計画』 に父と共に参画するも、敗戦によって同計画は頓挫。

そして1951年に起き大惨事となった桜木町事故の責任を取って国鉄車両局長を辞職。

(※但しご本人は引責辞任であることは否定していますが・・・。)

しかし捨てる神あれば拾う神あり・・・1955年に国鉄総裁に就任した十河信二氏は自ら推進する新幹線計画推進のため、電化計画や海外視察で学んだ標準軌導入による大量輸送構想を持つ島氏を国鉄技師長として抜擢。

1959年から工事が始まった国鉄初の標準軌を採用した東海道新幹線を、二人三脚で東京五輪開幕直前の1964年10月1日開通に漕ぎ着けたのです。


(とはいえ、十河総裁は開通前年に予算不足の責任を取らされて辞任、島氏も後を追って国鉄を退職したため、二人は晴れの開通式に出席していません。)


1969年、島氏は鉄道とは離れて初代の宇宙開発事業団の初代理事長に就任、2期8年務めました。

日本が打ち上げた人工衛星に 『ひまわり』 とか 『ゆり』 など植物の名前がつけられたのは、島氏の園芸趣味からだそうな。

1994年に鉄道関係者として初めて文化勲章を授与された島氏が96歳で大往生を遂げたのは、その4年後・・・1998年3月18日のことでした。


島氏の半生・功績について知りたい方には、この本をお勧めします。

 『新幹線をつくった男』 (高橋 団吉・著 PHP文庫・刊)


       


島氏は新幹線の開発にあたり〝分散動力方式〟という駆動方式を採用、これにより車両の軽量化や線路や鉄橋などの予算軽減につなげるなど、数々の画期的な技術を導入しました。

しかしその中でも特筆すべきは、自動列車制御装置(ATC)や車内信号システム、踏切のない全線閉鎖軌道など、とにかく安全第一を貫いたこと。 彼自身、

「新幹線は事故を起こしません。 そのように作りましたから。」

断言した通り、新幹線は開通以来半世紀にわたり乗客の死亡事故はゼロ。

開通してすぐ大事故を起こし、それを隠蔽するかのように車両を地中に埋めようとしたどこかの国とはレベルが違います。

「技師長の私は、まとめ役にすぎません。」


謙虚に語る島氏の確たる信念とリーダーシップがあったからこそ、新幹線の安全神話は生まれた・・・私にはそう思えるのです。

SL、新幹線、そしてロケット・・・Mr.新幹線というよりMr.安全第一というべき日本を代表するエンジニアのご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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