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小 包

若い方はご存じないかもしれませんが、1970年前後にかけて我が国では過激派による爆弾テロが連続して起きました。

1969年10月の警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件、翌月のアメリカ文化センターピース缶事件、1971年10月には当時の後藤田正晴警察庁長官と新東京国際空港公団総裁に宛てた郵便小包が爆発し郵便局員が重傷を負った日石本館地下郵便局爆破事件。

そしてついに死者が出でしまったのが、今から45年前の今日・1971(昭和46)年12月18日に起きた

 土田邸小包爆弾事件

当時警視庁警務部長だった土田國保氏の自宅 (豊島区雑司が谷) に届いたお歳暮に見せかけた郵便小包が爆発。

奥さんが即死、13歳の四男が重症を負いました。


差出人が知人の名前のなっていたという小包は、前日に神田・南神保町郵便局に女性が持ちこんだことが判明。

しかし一連の爆破事件に関し警察は20名近い被疑者を逮捕・起訴したものの、被疑者が取り調べ時に拷問により虚偽の供述をさせられたと無罪を主張し、結局全員が無罪判決という検察・警察の全面敗北に終わり、犯人は特定されぬまま時効を迎えました。

その後活動家の関係者が出版した著書によれば、犯行動機はちょうど1年前に 『上赤塚交番襲撃事件』 が起きた際、土田氏が

「犯人を射殺した警察官は正当防衛だった」


と発言したことへの報復だったとのこと。

仮にそうだったとしても、到底許される犯行ではありません。

土田氏が事件当日夕方に会見で述べた

「一人の人間としてこのような事件はこれで終わりにしてもらいたい。

2度と繰り返してくれるな。 私は犯人に向かって叫びたい。

君は卑怯だ。 自ら責任を負うことはできないだろう。

一片の良心があるなら世の人の嘆きや悲しみに思いやりがあるなら、凶行は今回限りでやめてほしい。」

という言葉は人々の胸を打ち、それまで過激派に対し理解を示していた一部マスコミも一斉に「殺人集団」・「反社会的」などと徹底的に非難。 

当然国民の思いも同じであり、過激派は自らの活動によって更に孤立化を深めることになりました。


         


土田氏は、1922(大正11)年の東京生まれ。
東京帝大・法学部を卒業後に、内務省入り。 

大東亜戦争では海軍予備学生として戦艦武蔵に乗り組んだり、乗っていた戦艦が沈められ僚船に助けられるなどの経験も。

剣道の達人であり、戦後警視庁入りした彼は早くから〝プリンス〟と呼ばれ、ワシントンポストに写真入りの記事が掲載される程将来を嘱望された人材でした。

この事件で奥様を失った彼は、年老いた母親と家事を手分けしながら大学生、高校生の息子4人の世話をし、1974年に海軍時代からの旧知の女性と再婚。

その翌年2月に第70代警視総監に就任しましたが、在任中にも様々な事件に見舞われます。


同年6月に日本武道館で催された佐藤栄作・元首相の国民葬で、当時の三木武夫首相が暴漢に殴られる不祥事が発生。

この事件は後にSPが誕生するキッカケになったのですが、土田総監は国家公安委員会から訓告処分に。

更に1978年1月には現職の制服警官が世田谷区で女子大生を殺害する事件が起き、彼は警視総監として戦後初の減給処分を受けました。

その翌月、最も信頼していた村上健刑事部長の警視庁葬で葬儀委員長を務めた翌日に警視総監を引責辞任。

その後防衛大学校の校長を務め、1999年に77歳でこの世を去りました。

奥様をテロで亡くした後に警視庁トップの座に就いた土田氏の心境は、如何ばかりだったのでしょうか・・・。

※余談ですが、一連の缶ピース爆弾事件で左翼活動家の弁護士だったのが、後に国会で自衛隊を〝暴力装置〟呼ばわりした仙谷由人氏であり、当時彼の部下だったのが福島瑞穂氏。

どっちが暴力装置なんだか。うー





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