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泰然自若

あのマッカーサー連合軍総司令官が心酔し、海軍の東郷平八郎元帥と並び称された〝陸軍の雄〟といえば・・・そう、


 大 山 巌 元帥


今日は、 この日本帝国陸軍総大将の命日・没後100周年にあたります。


       
大山元帥は1842年、薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として鹿児島に生まれました。


西郷隆盛とは従兄にあたり、体型もそっくり。

14歳年上の西郷を、〝兄さぁ〟 と呼び慕っていたといいます。


郷中(地元青年団)教育で薫陶を受け、一時は過激派に属し1862年に島津久光につき従って京都入りした際に各藩の攘夷派と合流しますが、寺田屋事件で鎮圧され帰藩・謹慎の身に。


その後薩英戦争に従軍し、イギリスら西欧諸国の軍事力に衝撃を受けた彼は江戸で砲術を学び、自ら砲身の内側に螺旋状の筋をつけた〝弥介砲〟を開発。


戊辰戦争ではこの新型砲を駆使して、新政府軍の勝利に大きく貢献。


1869(明治2)年に渡欧し、普仏戦争を視察。

翌1870(明治3)年にはイギリス公使館護衛隊の軍楽隊長J・W・フェントンから国歌を制定すべきと進言を受け、自らの愛唱歌だった薩摩琵琶の『蓬莱山』の歌詞から『君が代』を採用。
軍事学を修めドイツ式陸軍の創設を志します。


同年に再びジュネーヴに留学して軍事施設を見学。
列強の強さを目の当たりにして独立には軍備増強が不可欠であると再認識、


しかし3年後に西郷隆盛が政府軍と決裂したとの報を受け、急遽帰国。


鹿児島で西郷と会談・説得を試みますが失敗・・・結局西南戦争では政府軍の指揮官として兄とも慕う西郷を自刃に追い込むという辛い経験をしました。

その後日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官として日本軍の勝利に大きく貢献、〝陸の大山・海の東郷〟と称されました。           

私が指揮官として大山元帥を尊敬するのは、その器の大きさにあります。


日露戦争時、満州軍総司令官は山縣有朋が就任するはずだったのですが、明治天皇は大山元帥を抜擢。


その際理由を問うた大山元帥に、明治天皇は


「山縣は鋭いし万事に気がつくがために、細かく指導するので部下から敬遠されるだろう。 そこで、あまりうるさくないお前にしたわけだ。」

と仰ったとか。 この人物評も、さすがと言わざるを得ません。


実際、沙河会戦において 『坂の上の雲』 の主役の一人・秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲され絶体絶命のピンチに立たされた時のこと。


総司令部が半ばパニック状態に陥ったのを見た大山元帥は、なんと昼寝から目覚めたばかりと言わんばかりの寝間着姿で作戦室に入るなり、


「児玉(源太郎参謀次長)さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか?」

とおトボケ発言をかますと、居合わせたメンバーは大笑い。
この一言で幹部将校たちが冷静さを取り戻し、その危機を脱したといいます。

また凱旋帰国した際、息子に「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何でしたか?」 と聞かれれた際、

「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかったことだ。」

と答えたという逸話を併せ聞いた時、私は元帥の大物ぶりと将たる者の心構えを教えられました。


またこれほどの人物・実力者でありながら、総理候補になることを嫌い極力政界入りを避けたというところにも、軍人としての誇りと矜持を感じます。


          ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草
          『大山巌-剛腹にして果断の将軍

              (三戸岡道夫・著 PHP文庫・刊)


日露戦争後は那須の別邸で農業にいそしむ毎日だったそうですが、晩年は糖尿病など病気との闘いだったとか。


残念ながら体調は回復することはなく・・・1916(大正5)年12月10日、74歳でこの世を去りました。

最期の言葉は「兄さぁ・・・」 だったとか。
西南戦争後は一度も郷里・薩摩に戻ることがなかった大山元帥は、おそらく終生自らの手で西郷隆盛を死に追いやったことを悔やんでいたのかもしれません。


あの世で再会した2人は、やっと言葉を交わせたのかも。笑3


日本を代表する軍人・・・というより偉人のご冥福を、お祈り致します。



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