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失 態

人間って、極度に緊張すると思わぬ失敗をする・・・これは私を含め多くの方が経験していると思います。

以前損保に勤務していた時、新任の課長が着任早々取引先に挨拶回りに行く際は、1台の車に担当者が2,3人同乗し、それぞれの担当先までかわるがわる運転をして案内をしていました。

その時、入社してまだ1年しか経っていない若手社員が初めて案内役をした際、緊張して下りるべき首都高速のインターチェンジを通り過ぎてしまったことが・・・。

「あれっ、ここで下りるんじゃなかったっけ?」

同乗していた私が声をかけると、その彼が「アッ!」と声をあげ、固まってしまったのです。

「あはは、まぁしょうがないナ。 ドライブがてら環状線もう一周しようか。」

と私が冗談を言ってその場を和ませ、事無きを得ましたが・・・今から82年前の今日起きた出来事は、笑い事では済みませんでした。 それは、

  
桐生鹵簿誤導事件


鹵簿(ろぼ)とは、行幸すなわち天皇陛下が外出された際の行列のこと。

つまりは天皇陛下の行列の道順を先導者が間違えるという、信じ難い失態があったのです。

1934(昭和9)年11月16日、群馬県の高崎練兵場で陸軍の大演習が行われ、それに臨席された昭和天皇が、そのあと桐生市を視察。

これに備え、桐生市民は1年も前から道路を整備し予行演習を重ね、〝現人神〟たる昭和天皇のお迎えを準備万端で迎えた・・・はずでした。

しかし前日前橋市内を先導した本多重平警部は、翌日桐生市内を先導するはずの担当者が体調不良で急遽辞退したため、そのままその代役を務めることに。

前日の夕食時にその代役を依頼された本多警部は当初土地勘のない桐生市の先導役を渋ったそうですが、旧知の矢島運転手から「私が何回も下準備しているから、大丈夫」と電話口で説得され、やむなく承諾。

しかしこのことが、躓きの第一歩になってしまいました。


同日午前9時41分、21発の奉迎花火が打ち上げられる中、天皇陛下を乗せたお召列車が桐生駅に到着。

御料車に乗られた天皇陛下を一目見ようと大群衆が道の両側を埋め尽くし、道路環境が普段とは一変。

そして極度に緊張してハンドルを握っていた矢島運転手が人波に幻惑され、本来曲がるべき交差点を直進してしまったのです。

         

           当時の御料車 メルセデス・ベンツ 770グローサー


本多警部をはじめ先導車に乗り合わせた道に不慣れな人々は、皆しばらく間違いに気づかなかったそうですが、気づいた後も戻ることはできなかったため、そのまま前進して当初の予定とは反対回りの行程で視察は続けられました。

しかし驚いたのは受け入れ側。

最初に訪れる予定だった桐生西小では、天皇陛下ご一行が行方不明になったと大騒ぎ。

また逆に予定より早く行列が通った道では、本来正座してお迎えするはずが立ったままタバコを吸う市民の姿が目立つ羽目に。

結局順番が変わったとはいえ視察は行なわれたのですが・・・マスコミはこの失態に噛みつきました。

天皇陛下御自身は、これについて何ら責めようとはなさらなかったそうですが、翌日の全国紙はこの誤導事件を大々的に〝大失態〟などと一面で報じ、その後報道は加熱の一途。 

また国会から地方議会まで、この事件を政争の具として利用しました。

可哀想だったのは、急遽代役を引き受けたばかりに批判の矢面に立たされた本多警部。

当時42歳だった彼は、尋常小学校だけの学歴ながら苦学して警部まで昇格した、温厚な性格の叩き上げ。

真面目だった故に、その責任の感じ方は相当なものだったはず。

故に警察は自決を防ぐため、自宅謹慎となった彼の自宅に2人の監視役をつけたのですが・・・事件の2日後にお召し列車が前橋駅を出発する直前、家族や監視役に見送りに行くよう命じ、一人になったところで発車の汽笛と同時に日本刀を喉に突き立て、自決を図ります。

幸いにも手が滑って突く力が弱まり一命は取り止めましたが、食事や会話に支障を来す後遺症を負いました。

その後は「もう一度天皇陛下のために生きる」と決意し国立療養所の事務長などを歴任、1960年に68歳でこの世を去ったそうな。


もし現代において先導車や白バイが道を間違えたら、どうなるのか?

マスコミが寄ってたかって叩くところや、野党が政治と関係ない事件で与党の足を引っ張るのはおそらく同じでしょうネ。うー



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