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海 防

長らく鎖国体制を維持してきた江戸幕府(や日本人)にとって、1853(嘉永6)年のペリー来航は、まさに驚天動地の出来事だったはず。

アメリカはじめ西欧諸国の接近と次々和親条約を締結せざるを得なかったことは、現代人には想像できない程の脅威と不安を当時の日本人に感じさせたことでしょう。

それを払拭すべく、幕府や各藩はかねてより交易を行なっていたオランダから軍事の専門知識を導入し、海外列強からの攻勢・侵略に対抗しようとしました。

その一環として、江戸幕府が海軍力増強・士官養成を目的として

 長崎海軍伝習所

を出島の裏手にあった長崎奉行所の西役所(現・長崎県庁)に開設したのが、今から160年余り前の今日・1855(安政2)年7月29日のことでした。


      

オランダはベルス・ライケンら教官22名を派遣し、また練習艦として蒸気船・スムビング号 (観光丸) を寄贈。

幕府が同国に発注した蒸気船(後の『咸臨丸』・『朝陽丸』)の乗員養成のため、第1期生として幕府から37名、それ以外にも佐賀藩からの47名を筆頭に薩摩・筑前・長州ら各藩から合計128名が伝習生として参加しました。

私がこの存在を初めて知ったのは、NHK大河ドラマ 『勝海舟』(1974年) を観た時。

このドラマのオープニングが大海原を進む帆船のシーンだったこともあり、主人公の勝麟太郎(海舟)がここに入所するシーンと合わせて、〝海軍伝習所〟は私の記憶に残りました。

その勝は総督・永井岩之丞を補佐する学生長を務めて第1期生をまとめます。


1957年には第1期伝習生はスムビング号と共に江戸に回航し、築地に海軍伝習所を設置。


その後長崎の伝習所は第2・3期と伝習生を受け入れますが、徐々にそのメンバーは (オランダ側の進言を受け入れて) 若手主力に。


そして江戸から遠かったことで維持経費がかさむことを理由に、僅か4年後の1859(安政6)年に伝習所は閉鎖されてしまいます。


しかし同伝習所では単に軍艦の操縦等どを学ぶだけでなく、造船・医学・語学などの様々な教育が行われ、これに派生して作られた長崎養生所・長崎英語伝習所は、後の長崎大学の基礎となり、飽浦修船工場・長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となりました。


またここで学んだ伝習生たちは、幕府や各藩海軍の主力となり幕末から明治維新以後にかけて大きな役割を果たすと同時に、明治以後の日本海軍の基礎となりました。


さて、この伝習所に関して一冊の本をご紹介します。

 『長崎海軍伝習所の日々』 (平凡社東洋文庫・刊)


       

著者は完成したヤーパン号(後の咸臨丸)を回航すると共に伝習所の第2次教官として来日し、勝海舟や榎本武揚らに航海術・砲術などを伝授したW・H・V・カッテンディーケ


この方、伝習所閉鎖後に帰国し、オランダの海軍大臣・外務大臣を務めた一角の人物。 

2年間滞在した彼の目から見た日本人の姿が率直に記されており、江戸末期の日本(というか長崎)の様子がよく分かります。

また教え子・勝海舟らの評価も客観的であり、従来の彼らの国内評価と対比するのもおもしろいかと。

彼は同書の中で 「こんな美しい国で一生を終わりたいと何度も思った」 と述懐していますが、反面こんなことも書き残しています。


『午後九時、(ヤーパン号は長旅の末)無事に長崎港口に錨を下ろしたが、その際に暗闇の中、船から2発の砲を放ち到着を知らせたものだから、忽ち市民の間に大騒ぎを起こした。

これまで外国船が、夜中に湾内に来て投錨するというようなことはなかった。 


しかるに私が敢えて砲を放ったのは、夜中には何事も起こらないと安心し切った気持ちでいるお人好しの日本人の夢を、多少なりとも醒まさせようとの考えからであった。』

日本人の平和ボケは昔からのことであり諸外国はそれを良く知っていた、ということなのでしょう。

残念ながら、その状態は今も変わらない・・・と、私には思えます。

古い本ですが、幕末に関心のある方にはご一読をお勧めします。笑2 




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