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歴 戦

日露戦争で活躍した軍人というと、一般的には東郷平八郎元帥や乃木希典陸軍大将が有名ですが、この方も忘れてはいけないと思います。

 児玉 源太郎 陸軍大将

今日・7月23日は、司馬遼太郎をして〝天才〟と言わしめたこの軍人・政治家の命日・没後110周年にあたります。


         

源太郎(幼名・百合若)は1852(嘉永5)年に現在の山口県周南市で徳山藩の中級武士の家に長男として生まれたものの、5歳の時に尊王攘夷を唱える父親が藩内の開国派に疎まれ蟄居閉門の末に憤死。

更に13歳の時に養育してくれていた義兄が佐幕派のテロにより自宅玄関で惨殺されるという、過酷な幼少期を過ごしました。

家禄を剥奪され、周囲から冷ややかな目で見られた彼は、それを跳ね返すべく17歳で献効隊の半隊司令士(小隊長)として五稜郭の戦いで初陣を飾り、陸軍に入隊すると6年後の佐賀の乱では大尉として従軍。

更に1876(明治9)年には熊本鎮台准参謀として神風連の乱をほぼ1人で鎮圧し頭角を現すと、翌年には同参謀副長として西南戦争に参戦して薩摩軍の猛攻から熊本城を護り切る軍功を挙げて勇名を馳せ、その後順調に昇進。

1896(明治29)年に陸軍中将に昇進すると、その2年後には台湾総督に。

そこで後藤新平を見出した彼は、1900(明治33)年には台湾総督兼任で第4次伊藤内閣で陸軍大臣、そして1903(明治36)年に第一次桂内閣で内務大臣を拝命。

ところがその僅か3ヶ月後、対露戦を控えた大山巌・参謀総長から請われて大臣の職を辞し参謀本部次長に就任。

これは実質的には降格人事・・・その後日本軍が解体されるまで、降格人事を受け入れたのは彼だけでした。

しかし翌年陸軍大将に昇級し満州軍総参謀長として満州に渡ってからは、遼陽会戦・奉天会戦などで大山元帥を補佐し勝利に貢献。

苦戦していた二百三高地を、僅か着任後4日で攻略したことは有名です。

そして特筆すべきは、奉天会戦勝利に浮かれ
ウラジオストクへの進軍を画策する大本営に、急遽東京に戻って戦争終結を強く進言したこと。

勝利の立役者が自ら戦いを止めさせようとする・・・なかなか出来ないことだと思います。

当然大本営は渋りましたが、やはり日本軍の戦力が限界にきていることを悟っていた山本権兵衛・海軍大臣が賛成し、ようやく日露講和の準備が始められることに。


もし児玉大将の進言がなければ、大東亜戦争同様日本軍はその後泥沼にはまった可能性が大でした。    

冒頭にご紹介した通り、司馬遼太郎は 『坂の上の雲』 の中で彼を天才戦略家として描いていますが、私は(もちろん生まれ持った才能があったにせよ)現代なら高校1,2年生の時から戦場に出て、瀕死の重傷を負いながらも修羅場を生き抜いた歴戦の経験こそが、彼を超一流の軍人に育て上げたのだと思います。

日露戦争後の日本にとって、欠くべからざる逸材だったのですが・・・ロシアとの講和から僅か9ヶ月余りしか経っていない1906(明治39)年7月23日、自宅で就寝中に脳溢血に襲われ急逝。

まだ55歳、これからという時でした。

日露戦争の肉体的・精神的重圧が、寿命を縮めたのかもしれません。

もし彼がその後も存命で陸軍の暴走を抑えられたなら、日本の歴史は少なからず変わっていたはず・・・我が国にとって、大きな損失でした。

そんな児玉大将の実像について知りたい方には、この書籍がお勧め。

 『児玉源太郎 そこから旅順港は見えるか
                  (小林道彦・著 ミネルヴァ書房・刊)


       


同書は小説ではなく、多くの一次資料の収集・分析を基に史実を客観的に掘り下げたもので、児玉大将の人物像を正確に浮き上がらせてくれます。


神風連の乱鎮圧直後、明治政府から現地に打たれた電文の第一報が、「児玉少佐ハ無事ナリヤ」だったという有名なエピソードを否定しているところが、その代表的な例といえましょう。

大山巌・乃木希典・桂太郎ら周辺の人間関係も分かる、秀作です。


この本を読み返しつつ、日本を窮地から救った名参謀のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3



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