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徒 花

これまで政界には何度かブームが起こり、それこそ雨後の竹の子のように新党が旗揚げされてきましたが、おそらくその〝新党ブーム〟のハシリとなったのは


 新自由クラブ


だったと思います。

この新党が立ち上がったのが、今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年6月25日のことでした。

これを遡ること4ヶ月前の1976年2月にロッキード事件が発覚、政治倫理が国民の強い関心事になっていました。

その流れの中で自民党を離党した衆議院議員の河野洋平氏と、彼の主宰していた勉強会 『政治工学研究所(政工研)』 のメンバーだった田川誠一(河野氏の従兄)・西岡武夫・山口敏夫・小林正巳・有田一寿各氏が〝保守政治の刷新・腐敗との決別〟を掲げて結党。

代表には、あの河野洋平氏が就任しました。


   

戦後長らく保守系政党の自民党が政権与党であり続ける中、新しい保守政党が誕生したことは、革新政党への支持はしないものの自民党に不満を持つ有権者層の目には新鮮に映ったのか、結党半年後の12月に衆院選では、一挙に17人の公認候補が当選。

政界に大きな一石を投じました・・が、その勢いも長くは続きませんでした。


やがて党の方針を巡って、中道派の河野・田川両氏らと非自民・第二保守政党化を目指す西岡・山口氏らが対立、河野代表と西岡幹事長の不仲が表面化。

お互いが公の場で批判するまでになりましたが、党内若手の多くは河野派で占められていたため、結局西岡幹事長が1979年7月に離党。


この間党内抗争ばかりで政策的には何ら新味を打ち出せなかった同党は、その3ヶ月後に行われた衆院選では僅か4議席と惨敗。

生き残りをかけて首班指名では大平正芳氏に投票し自民党との連立政権を画策したものの、野党やマスメ゛ティアから批判の集中砲火を浴び、河野代表は辞任に追い込まれます。

その後社会民主連合との連携を図り院内会派を結成するもやがて解消。

民社党などと連合構想を公表したと思ったら、一転自民党と連携するなど、政党としての明確なスタンスが確立せず迷走を続けます。

1983年の衆院選で自民党が過半数割れし、中曽根内閣に田川代表が自治大臣として入閣し連立内閣に加わることで辛うじて存在をアピール。

その後第2次中曽根内閣には山口・河野両氏が入閣しましたが、1986年の総選挙で自民党が大勝を収めると、もはや用済み。

新自由クラブは6議席と振るわず、同年8月15日に解党・・・まさに〝終戦〟と相成りました。

殆どの所属議員は再び自民党に戻り、謀反を起こした張本人の河野氏も復党。

しばらく冷や飯を食わされた後、1993年に宮沢内閣の官房長官として従軍慰安婦問題に関する〝河野談話〟を出したことは、ご承知の通り。

突き放した言い方をすれば、苦労知らずのお坊ちゃまが理想に向かって徒(あだ)花を咲かせただけだった・・・と言えましょうか?


一昨年お家騒動を繰り返した挙げ句空中分解したみんなの党も、創立しながら自らの手で壊したのはやはり世襲の渡辺喜美氏。

歴史は繰り返す・・・と感じたのは、私だけではないでしょう。うー




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