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Mr.N響

かれこれ30年以上、私は毎年末にNHK交響楽団の〝第九コンサート〟を聴きに行っています。


この日本最高峰のオーケストラを1969年から2006年までの長きにわたり正指揮者として育んだのが、


 岩城 宏之 


今日は、この日本を代表する名コンダクターの命日・没後10周年にあたります。


岩城氏は1932(昭和7)年の東京生まれ。
生まれつき病弱で、小学校高学年の頃10ヶ月も病欠したり、骨膜円で片足切断寸前までいったことも。

そして疎開や大蔵省の役人だった父親の転勤などで全国を転々とした後、学習院高等科2年生の時 『オーケストラの少女』 を観て感動し、音楽家を志します。

東京芸術大学音楽学部に進学しましたが、1年の終わり頃に学則を破って近衛秀麿のオーケストラでティンパニを演奏したため、結局単位を取らず中退。

しかし1年下の山本直純氏ら後輩に声をかけて編成したオームストラを指揮する傍ら、渡邉暁雄氏の自宅や齋藤秀雄氏の指揮教室に通って手ほどきを受けました。


打楽器奏者から指揮者になるのはレアケースだと思いますが、指揮者の身のこなしが正面からよく見えるよう、管楽器用ヒナ壇の中に隠れてコンサートを聴くような努力(?)が功を奏してか、1954年にN響の初代事務長・有馬大五郎氏の推薦によって、同楽団の指揮研究員に。

しかしさすがにすぐコンサートで指揮をさせてもらうことはなく、当初はNHKラジオで放送されるムード歌謡曲などのポップスの指揮やアレンジの仕事などをもらって糊口を凌いでいたそうな。


そして転機は1960年にやってきました。


同年に行われたN響の世界一周演奏旅行に帯同し、同僚の外山雄三氏とともにヨーロッパ・デビュー。

その演奏を評価された彼は、1963年にはベルリン・フィルを指揮。
更に1970年の大阪万博開会式典でN響を指揮しました。

         


その後も日本人指揮者として初めてウィーン・フィルを指揮したのをはじめ、世界の一流オケをし、我が国の代表的な指揮者として名を知られるように。


また晩年には2004・2005年と2年連続で大晦日にベートーヴェンの交響曲全曲を演奏するという離れ業を地演じました。

N響だけでなく、名古屋フィルの初代音楽総監督、京都市響の首席客演指揮者、メルボルン響の終身桂冠指揮者、また東京藝術大学の指揮科客員教授など数々の役職を兼任し、国内外のオケを指導・育成。


また岩城氏は〝初演魔〟として知られ、黛敏郎氏ら日本人作曲家を中心に約2,000曲の初演をしたそうですから、その意欲には頭が下がります。

しかし生来病弱だった彼は、1989年から胃がん、2001年に喉頭腫瘍、2005年に肺がんと立て続けに病魔に襲われ、遂に2006年6月13日・・・心不全により73歳でこの世を去りました。

岩城氏には文才もあったようで、生涯で30冊近い著作を出版されています。

その第一作が、こちら。

 『岩城音楽教室』 (光文社・刊)


        

「指揮者は、音楽を通じてのみ意思を表現する」 と言って憚らなかった彼が、日本で自宅を新築するための資金源として出(版)した・・・と率直(?)な書き出しで始まるこの本は、なかなかに面白い内容。

その昔、メルボルン響を指揮してストラヴィンスキーの 『春の祭典』 の演奏中にミスをした彼は、通常そのまま流して演奏を続けるところを敢えて演奏を止め、観客に謝罪した上で再度間違えたところから演奏を再開し、観客や団員から喝采を浴びたことがあったとか。

またN響の正指揮者になってすぐの頃、聴き慣れない現代曲を演奏した際にステージから聴衆に向かって

「お義理で拍手するのは止めてほしい。 つまらないと思ったらヤジって結構です。 良いと思ったら盛大に拍手してほしい。」

と言ったのは有名なエピソードですが、この本の行間からは彼のそういう素朴かつ実直な人柄が滲み出ています。

音楽の授業がなかった学習院の中等科で、なぜ彼が音楽に興味を持ったのか?・・・音楽ファンならずとも、我が子にピアノやヴィーァイオリンを習わせようとお考えの親御さんには、ご一読をオススメします。

最近の国際音楽コンクールで、よく日本人演奏者が 「テクニックはトップクラスなれど、情感に乏しい」 と評されるのは、この音楽教育のスタートが間違っているからかもしれませんから。

今宵は岩城氏がベートーヴェンの交響曲の中で最もお気に入りだったという第8番を聴きつつ、ご冥福を祈りたいと思います。笑3




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