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輸 入

現在はべンツやBMWなど海外自動車メーカー各社は日本に直販店を進出させていますが、昭和時代に外車を買う人は必ずこの会社のショールームを訪れていたはず。

今日は、その日本最大の外車ディーラー 『ヤナセ』 の創業者


 簗瀬 長太郎 


の命日・没後60周年にあたります。


柳瀬氏は1879(明治12)年に現在の群馬県高崎市に生まれました。

地元の小学校を卒業すると単身上京して東京府尋常中学校に通っていた彼は、夜店の手伝いをしたり故郷から農産物を仕入れては売り学費や下宿代を稼いたといいますから、生まれつき商才があったようです。

苦学の末に、904(明治37)年に東京高等商業学校(現・一橋大)を卒業した簗瀬青年は、大阪商船(現・商船三井)に入社したものの社風に馴染めず、三井物産に転職。


同社で輸入自動車の販売を担当したことが、彼の運命を決しました。

業績不振で三井物産が自動車の取り扱いを中止したため、簗瀬氏は同社から輸入自動車と輸入鉱油類の販売権を譲り受けて退社し、1915(大正9)年に 『簗瀬商会』 を設立。


アメリカのビュイック・キャデラックの輸入販売を開始すると、1922(大正11)年には日本初の中古車オークションを開催。


芝浦に建てた工場内の敷地(300坪)に東京一帯から200台以上も車を集めたといいます。


しかし折りからの経済不況で、クルマは全く売れず。

ノイローゼになってしまった彼は、妻を連れて日本から逃げるように欧州へ旅行に出かけます。

簗瀬氏絶体絶命の大ピンチ・・・ところが、そんな彼を救う出来事が起こります。

          

それは、関東大震災。

欧州からアメリカに向かう船上でこの一大事を知った簗瀬氏は、船内の図書館で過去の震災を記録を調べ、

「大災害の時にはモノが動くより先に人が動く」

という結論に達し、ニューヨークに到着するや否やGM本社を訪問し、ビュイック・シボレーの乗用車2,000台を発注。

三井物産も大反対し、当のGM担当者でさえ相手にしませんでしたが、簗瀬氏はそれを押し切って契約を強行。


このあたり、全役員の反対を押し切って三越などの大口顧客との取引を絶ち宅配便に特化したヤマト運輸の小倉社長の決断とよく似ています。

買い付けた乗用車を乗せた船に同乗し、震災から約2ヶ月後の12月に横浜港に到着した簗瀬氏を待っていたのは、完売の知らせ。

到着前から予約が殺到し、プレミアまでついていたとのこと。

この起死回生の輸入断行により、倒産寸前だった簗瀬自動車は息を吹き返したのです。

そしてこれは同時に日本人の自動車に対する意識を変え、1年後には国内の保有台数が一気に2倍になったとか。

簗瀬氏の一発勝負は、モータリゼーションの歴史を変えたといっても過言ではないでしょう。


しかし日中戦争が始まると事態は一変。

1939年に自動車の輸入が禁止されると、同社は販売から自動車の製造や天然・液化ガスの製造・販売に事業主体を変え、必死に存続を図ります。

そして終戦の年、長太郎氏は息子の次郎氏に社長の座を譲り引退。

しかし以前から長太郎氏は次郎氏を評価しておらず、大学の後輩を後継者にするつもりだったそうですが、役員が大反対。

結局息子に継がせる形になったのですが・・・この時ばかりは独断専行しなくて良かったようです。

なぜなら次郎氏は、そんな父親に対抗心を燃やしヤナセを一流企業に育て上げたのですから。

※簗瀬次郎氏に関する過去記事は、こちら。(
  http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11418784328.html

名経営者親子の生き様・葛藤を見比べつつ、1956(昭和31)年6月11日に76歳で天に召された長太郎氏の冥福を、お祈りしたいと存じます。笑3


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