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河川敷
現在我が国には富士スピードウェイやツインリンクもてぎなど国際レースを開催するレース場がありますが、日本初(というよりアジア初)の本格的サーキットコースが誕生したのは、何と東京都内でした。 そのコース

 多摩川スピードウェイ

が完成した直後に第1回全国自動車競走大会が開催されたのが、今からちょうど80年前の今日・1936(昭和11)年6月7日・・・二・二六事件の僅か3ヶ月半後のことでした。

1周1,200m、幅20mの楕円形のダートトラックコースは、現在東急東横線で多摩川を渡ると見える、日本ハムファイターズのファーム球場をグルッと囲む形で作られました。

航空写真と合成すると、こんな感じだったそうです。(




        
右下斜めに突っ切る直線が東急東横線で、その左上に隣接するのが日ハムの球場。

輪ゴムを置いたような土色の楕円がダート・コースというわけ。

土手を観客席にして、最大収容人数3万人という、当時としては巨大な施設で行われた記念すべきこの自動車レースは、カーチスやフォードなどの外国車だけでなく、日産自動車も参戦。

   

結局優勝したのは、三井物産傘下のオオタ自動車工業がハンドメイドで仕上げた 『オオタ号』。

現地でそのレースを観た日産の創業者・鮎川義介氏は自社の敗北に大激怒し、社員にリベンジを厳命・・・見事4ヶ月後の第2回大会で優勝を果たしました。

そして特筆すべきは、この大会にあの本田宗一郎氏(当時30歳)がドライバーとして参戦したこと。

自らフォードを改造した 『本田号』 のハンドルを握った彼は、しかし残念ながらレース途中でクラッシュ。

コースに投げ出された本田氏は、顔の半分が潰れたばかりか手首を骨折した上に右肩も脱臼するという、全治1年半という瀕死の重傷を負います。

同乗していた弟の弁二郎氏も肋骨4本を折ったといいますから、大変な事故だったんですネ。

普通ならこれに懲りて自動車とは距離を置きそうなものですが、そこは天下の本田宗一郎氏。

翌年には東海精機重工業(株)の社長に就任。

1945年の三河地震により会社が倒産するも、その翌年には浜松市内に本田技術研究所(後の本田技研)を設立し、日本のモータリゼーションに一大センセーションを起こして行きます。

創業者の心意気の凄さを見せつけてくれますょネ。

さて、本題の多摩川スピードウェイの話に戻りましょう。

その後定期的に自動車レースを開催し、ブガッティやメルセデスベンツ等の外国メーカーの参戦も増えたのですが、当時は日中戦争に突入した不穏な時期。

1938年4月のレースをもって、自動車レースは中止に


その後ガソリンが配給制になると、いつの間にかコースは閉鎖されてしまいました。

戦後一時期は公営レース場として復活させる動きもありましたが、結局は立ち消えになり、コースの真ん中に野球場が建設され現在に至っています。

しかし土手には、観客席の名残が今でも残っています。

        


また野球場の周囲にも、当時のダートコース跡として緩やかな曲線が残っている箇所もあるとか。

多摩川を散歩したり球場を訪れる方は、ちょっと周囲を散策してみたらいかがでしょう?

もしかしたら本田氏がクラッシュした場所を知らずに歩くことになるかも・・・。あせあせ




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