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今から830年前の今日・1185(元暦2)年2月19日・・・源平合戦の中でも有名な

 屋島の戦い


が、現在の高松市で行われました。


1183(寿永2)年、それまで栄華を誇っていた平氏が源義仲に敗れ、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、西方へ。

九州大宰府を追われ、翌年一ノ谷の戦いにも敗れた彼らが船で行きついたのが屋島でした。

平氏を追う源氏はそれまで水軍を保有していなかったため四国に迫ることが出来なかったのですが、その均衡を打ち破ったのは源氏のヒーロー・義経でした。


渡辺党・熊野水軍・伊予水軍を味方につけた義経は、彼らを渡邊津(現・大阪市の旧淀川河口)に集結させると、2月18日深夜、尻込みする船頭らを脅し僅か5艘・150騎で出航。

通常3日はかかるところを僅か4時間で阿波・勝浦に到着。
(※ただこの路線では現代のフェリーでも3時間半だそうですから、いくらなんでも早過ぎ。 実際には丸1日と4時間とする説が有力。)

現地で屋島の平家軍が手薄になっているという情報を得た義経は徹夜で屋島に進撃。


そして干潮時に騎馬で島に渡れることを知った彼は19日、周辺の民家に火を放って大軍と見せかけ、約3,000騎と圧倒的な兵力を保持していた平家軍を狼狽させ、彼らは壇ノ浦方面へと逃走。

しかし源氏方が少数と知った平家軍も反撃に転じる中、夕刻一時休戦。

その時、この戦いを有名にする出来事が。

平家軍から美女の乗った一艘の小舟が現れ、竿の先に扇をつけて 「これを撃ってみよ」 とばかりに挑発。

これを見た義経が、弓の名手として畠山重忠に白羽の矢を立てますが、彼はこれを固辞。

代わりに那須十郎を推挙するも、彼もまたケガを理由にこれを断り、おハチを実弟の那須与一に回したのです。

現代でもヤバい仕事は逃げて部下に押し付ける上司は沢山いますが、人間の本質は昔も今も変わらないようです。あせあせ

その与一も一旦は断ったという説もありますが、結局彼はこの大役を引き受けることに。


馬に跨ったまま海に入った与一は、船上で波に揺られる扇の的を中々定めることができず・・・しくじれば切腹と覚悟した彼は 「南無八幡大菩薩・・・」 と経を唱えると、狙いを絞って矢を一閃。

       

放たれた鏑矢は音を立てて扇に一直線・・・見事に命中。

赤い日輪の扇はヒラヒラと海に舞い落ち、両軍からはやんやの喝采。

・・・と、普通はここで話が終わるのですが、実際にはこのあと一悶着あったとか。

この見事な弓の技を目の当たりにした平家軍の武者が一人進み出て、的の下で舞いを始めます。

これを見た義経が、なんと与一に彼をも射るよう命じたというのです。

与一は大将のいう事には逆らえず、これまた見事に射倒したとか。

これに平家軍は激怒、再び源氏軍に襲いかかったというのですが・・・義経が武者まで射させたのは単に無粋だったからなのか、それとも敵の平常心を攪乱する作戦だったのか?


いずれにせよ、義経率いる源氏軍は20倍近い兵力を有した平家軍を撃破。

敗走した平家軍は、翌月の壇ノ浦の戦いで滅亡することになるのです。

余談ですが、この屋島の戦いでは戦闘中に義経が海に自分の弓を落とした際、平家軍に攻められながらもこれを捨てずに拾い上げた、〝弓流し〟という逸話も。

これは小柄だった義経が、「こんな(張りの)弱い弓を平家方に拾われて、源氏の大将の弓がかように弱いと嘲られては末代までの恥」と思ったからだとか。

牛若丸時代に今日の橋の上をピョンビョンと身軽に飛び回ったといわれる義経にも、体格コンプレックスがあったようです。

まずは面目を第一に考える武士ならではのエピソードと言えましょう。

このDNAは、良くも悪くも日本人の中にしっかりと遺されているようです。扇子

当時は(当然のことながら)島だった屋島も、現在は陸続き。

それでも那須与一が弓を射る際に馬を留めたという 『駒立岩』 などの名跡が現在も残されているそうな。

しかし干潮時でないと見られないそうですから、当地を観光で訪れる際は潮の満ち引き時間にご注意ください。




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