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超特急

〝人類最速の男は、誰か?〟

この単純明快な疑問に答えを出すのは、陸上競技の男子100m。

現在世界には9秒台で走る選手が何人もいますが、残念ながら日本人では未だ10秒の壁を破った選手はいません。

世界レベルからは一歩後退している日本陸上界ですが、かつてはこの種目で世界タイ記録を叩き出したスプリンターがいました。 それは


 吉岡 隆徳 

今日は、この名選手の命日・三十三回忌にあたります。

吉岡氏は1909年に現在の島根県出雲市に生まれました。

小学校卒業後に吉岡家の養子となった彼は、島根県師範学校在学時に陸上競技指導のため来県していた当時の100m日本代表・谷三三五選手にその才能を見出されます。

その後東京高等師範学校に進学すると、1930年に開催された極東選手権競技大会に日本代表として出場、それまでフィリピン選手の独壇場だった100mで日本人として初優勝。

更にその翌月に京城府(現・ソウル)で開催された競技会で10秒7の日本タイ記録をマーク。

そして1932(昭和7)年のロサンゼルス五輪では東洋人として初めて100mで6位入賞を果たし、〝暁の超特急〟と呼ばれるように。 

そして1935(昭和10)年6月9日、甲子園競技場で開催された 『関東・近畿・フィリピン対抗戦』 に於いて、10秒3という当時の世界タイ記録を叩き出したのです。

※しかし実はこの時、4人の計測員が使用したストップウォッチは10秒2が2人と10秒3が2人。


本来は3人で計測するべきところを何故か4人で計測したため、遅い方の10秒3を公式記録としたのだとか。 


もし規定通り3人で計測して、内2人が10秒2であれば、規定上は世界新記録の誕生だったのです!ダメだぁ顔 オシイ


     

・・・その後も再度同タイムを出し、翌年のベルリン・オリンピックではメダルを期待されたものの、国民の期待があまりに重かったのか、2次予選で敗退。 


信号待ちをしている時も、青に変わった瞬間に身体が反応する訓練をするなど、人生の全てを陸上に捧げた生真面目な吉岡選手は責任を感じて自殺まで考えたそうですが、

「次のオリンピックで頑張って!」

という小学生の言葉に心を動かされ、その後も現役を続行。

日本選手権の100mに通算6度の優勝という当時の最高記録を樹立し引退しました。

その後は広島高等師範学校の教授に就任。


原爆投下に遭遇した後も広島市の体育行政に携わる一方、リッカーミシン陸上部監督として自己記録を抜く10秒1を出す飯島秀雄選手や80mハードルで1964年東京五輪のファイナリストとなった依田郁子選手などを指導。

また1970年には東京女子体育大学の教授に就任し多くの後進を指導し、日本陸上界に貢献されました。


そしてこの方の凄いところは、「100mは私の一生の友」 とし、生涯を通じて記録に拘ったこと。

70歳の時に15秒1というタイムを出したというのですから、恐れ入ります。

私なんか今100m走ったら、確実に50m前後で足が絡まって転倒するでしょうネ。


しかしそんな吉岡氏も、1983年にアキレス腱を切断して入院。
その後退院することなく、1984年5月5日に胃がんにより74歳でこの世を去りました。

現役当時は足袋のようなスパイクで土のグラウンドを走って世界タイ記録を出した吉岡選手が、もし現在の超軽量スパイクで最新の全天候トラックで走ったら・・・あるいは10秒を切ったかもしれません。

そんなことを思いつつ、〝暁の超特急〟のご冥福をお祈り致します。笑3


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