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掌返し

現在も共産党が一党独裁を続け、10億人以上の人口を持つ大国ながら、言論はネット時代になっても厳しく統制されている中華人民共和国。

しかしこの国でも、以前は広く国民の声を集めようとしたことがありました。

1949年、毛沢東はソ連のスターリンの協力を得て中華人民共和国を建国。


しかしそのスターリンが1953年に死去すると後任のフルシチョフがスターリン批判を始めたことで、中国における毛沢東の独裁体制にも暗雲が。

それに危機感を抱いた彼は、今からちょうど60年前の今日・1956年5月2日、最高国務会議の席上で、

 「共産党への批判を歓迎する」

という異例の発言を行い、春秋戦国時代に諸学派がそれぞれのイデオロギーを主張し論争を繰り広げた〝諸子百家〟をなぞらえた

 百花斉放・百家争鳴


と呼ばれる政治運動を提唱したのです。


          

しかし当初は、過去の弾圧を知っている国民から全く共産党批判は出ず。

そこで毛沢東は、翌1957年2月、他党の代表者や共産党の幹部を集めて最高国務会議を開き、あらためて批判を要請。

更に翌月、全国宣伝工作者会議でも同様の要請をするに及び、それまで口をつぐんでいた知識人らが共産党批判を開始。


ところがひとたび出始めた批判は、あたかも洪水の如し。
しかもその内容は次第にエスカレート。

共産党の独裁や毛沢東の指導力不足を指摘するものまで飛び出してくる始末。

更に共産党機関紙である人民日報までが党を批判するにおよび、毛沢東はそれらの意見が建設的ではなく破壊的なレベルに達している、と危機感を抱きます。

1957年5月、毛沢東は共産党を批判する者たちも批判するよう言明。

結局批判した知識人らは彼によって〝右派〟というレッテルを貼られ、一転して粛清の対象に。

翌1958年までに右派分子と見做された550万人余りが失職・追放・拷問、中には処刑されたといわれます。


そして毛沢東が死去する1976年まで、言論の自由は封殺されました。なぜ毛沢東が突然共産党批判を奨励したのか、その理由については人気回復のためなど諸説ありますがはっきりしていません。


しかし結果的には不満分子のあぶり出しになったことは確か。

こういう歴史を持つ国に、民主主義の導入や言論の自由が保障される時代が果たして来るのでしょうか?

そして国民をも平気で欺く国家と外交で信頼関係を結べる、などと思わない方が身のためだとも感じます。

数日前に行われた日中外相会談の内容を見れば、頷く方も多いはず。

中国(共産党)、恐るべし。 うー   


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