FC2ブログ
神 技


国際的に人気のある日本の武道・・・といえば一般的に柔道・空手、それと合気道でしょうか。

今日は、その合気道の創始者にして〝道祖〟ともいわれる

 植芝 盛平 

の命日にあたります。


        

いかにも武道家然とした貫禄と威厳を感じさせるお顔の植芝氏は、1883(明治13)年に現在の和歌山県田辺市の裕福な農家の長男として生まれました。

父親は村会議員も務める名士であると同時に巨漢・怪力の持ち主だったそうですが、以外にも植芝氏は痩身・病弱。

(実際、大人になっても身長は156cm止まりだったとか。)

田辺中学を中退して税務署に勤務するも、漁民の権利運動に加担したことで退職に追い込まれ、父親の支援を受け東京で文房具卸売業を営むも、身体を壊して郷里に戻り静養することに。

ただ東京で柔術・剣術を学んだことが、後の下地になったようです。

20歳の時には身体は頑健になったものの、徴兵検査では身長が足りずに一旦不合格になったものの嘆願して入隊を果たすと、同時期に柳生心眼流柔術・中井正勝に入門。

行軍遠州屋銃剣術で目覚ましい活躍を見せ、上官の代理で教官を務めたといいます。

その後順調に出世をした彼は職業軍人の道を進もうとしますが、父親の猛反対で断念・・・故郷に戻ったものの、心因的なストレスが溜まったのか夜中に突然起き出しして井戸水を被るなどの奇行が目立つように。

心配した父親が納屋を改造して道場を作り、柔道家を招いて稽古をさせると、めきめき上達。

その後29歳で北海道開拓団に応募し入植。
開墾に携わる中、武術家の大東流・武田惣角と出会い、彼に手もなく捻られたことで弟子入り。

師匠について修行に励み、警察署長や判事に手ほどきをするまでに。

また父親の危篤の報に接して郷里に戻る際に知った宗教団体・大本とも接触を持った彼は、その後入信。

そこで修業を続ける傍ら、1922(大正11)年に独自の武術を編み出し、これを 『合気道』 と名付けたのです。

1930年には講道館の創始者・嘉納治五郎も道場を訪れるほどに知名度・評判が上がると、1940年に 『財団法人 皇武会』 を設立。

戦後これを 『合気会』 と改称し、2代目道主となった三男・吉祥丸をと共に合気道の普及に勤めた盛平氏が85歳で天に召されたのは、今から47年前の今日・1969年4月26日のことでした。

その波乱に満ちた生涯の中には数多の逸話が残されていますが、私が驚くのは銃弾を避けたという話。

なんでも発射された弾丸がスローモーションのようにゆっくり見えたというのですから、かつて川上選手が「ボールが止まって見えた」のと同じ・・・というより、それ以上。

凡人の私には分かり得ぬ境地ですが、その稽古の様子を見ても、ちょっと信じられないような動きの数々・・・。(


      https://www.youtube.com/watch?v=hFM9OViKtAM

素人が見るとヤラセっぽいですが、本物でなければ世界で160万人もの競技人口には到達しないでしょう。


ただこれらの技は合気道を嗜む方にしか分かり得ないものでしょうが、合気道の〝氣〟に関しては誰もが気になるところ。

この点に関して、あの中村天風氏とこの植芝氏ご両人の高弟だったという方が興味深い著作を出されています。


 『中村天風と植芝盛平 氣の確立』 

               (藤平 光一・著 東洋経済新報社・刊)


       

師の技を冷静に分析し、1971年に 『氣の研究会』 を立ち上げた著者によれば、植芝氏の提唱する合気道の真髄は〝リラックス〟つまり力を抜く事だそうな。

確かにご紹介した映像を見ると、全く力が入っていないように見えます。

ただ私のような凡人は、
ここぞという時にどうしても力んでしまうもの。

もし植芝氏がゴルフをやったら、大選手になったかもしれませんネ。あせあせ



スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック