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献 身

特攻隊の出撃拠点として有名な、鹿児島県・知覧。

この地で食堂を構え、多くの特攻隊員のお世話をし見送ったことで有名なのが

  トメ さん

今日は、この〝特攻の母〟の命日にあたります。

トメさんは、1902(明治35)年に知覧から車で40分程の鹿児島県最南端の漁港・坊津町に生まれました。

町全体に収入源がなく貧しかったため、トメさんは小学校に1年しか通うことが出来ず、隣村の枕崎に子守り奉公に通わされ、15歳の時には鹿児島市の警察署長の家に住込みの女中奉公に。

そして3年後には加世田(現・さつま市)の竹田旅館で女中として働き出した彼女は、その旅館の古い棟に住んでいた南薩鉄道でバスの運転手・島濱義勇(よしとし)さんと知り合い結婚、知覧に新居を構えました。

行商を始めたトメさんは色白美人で評判が高く、やがては着物や広告のモデルもして家計を助けたそうですが、その後の彼女の運命を決定づけたのは、1929(昭和4)年・・・27歳の時に始めた富屋食堂でした。

この食堂が1942(昭和17)年に陸軍の指定食堂になり、知覧飛行場学校に通う少年兵らが頻繁に訪れるように。

そしてこの知覧飛行場が本土最南端に位置した故、特攻基地に・・・かつてここで操縦を学び任地へと巣立った少年兵たちが、特攻隊員として再び戻ってきたのです。

トメさんは彼らにいつしか〝おかあさん〟と呼ばれ慕われるようになり、彼女も我が子のように彼らに接し、私財を投げ打って世話をしました。

一度トメさんが時間外営業を咎められ憲兵に逮捕された際は、特攻隊員が憲兵に詰め寄って彼女を釈放させたそうですから、いかに彼女が慕われていたかが分かります。

そして特攻隊員として出撃する彼らから憲兵の検閲から逃れるために手紙を託されると、彼女は我が身の危険を顧みず、〝島濱トミ〟の名で親元に送ったのです。


        

                 トメさんと特攻隊員


そして終戦後は一転、警察署長から進駐軍の世話を頼まれたトメさんは、いったんは固辞したもののやがては生来の世話好きから彼らを迎え入れ、やがて〝ママさん〟と呼ばれるように。

また戦後で生活に窮した人々を住まわせ世話をし、時には自宅に泥棒に入った窃盗犯の身元引受人になって面倒を見たというのですから、頭が下がります。

知覧を訪れる特攻隊員の遺族のため、1952(昭和27)年に食堂を旅館に改築して人知れず特攻隊員の供養を続けていたトメさんの願いが叶い、1955(昭和30)年に旧・知覧飛行場の一角に特攻平和観音堂が建立されました。

※ この隣接地に1985年、『知覧特攻平和会館』が建てられました。

ここに所蔵されている特攻隊員の手紙や遺品の多くは、元特攻隊員で初代館長となった板津忠正さんが収集されたものだそうです。

その収集を始めたキッカケは、生き残ったことを苦にしていた彼に
トメさんが

「生き残ったということは、神様があんたをこの世に残したということだよ。 

あんたに〝やりなさい〟と仰っている仕事があるはずなんだょ。」

と諭したことだったそうな。 


        

                特攻平和観音堂とトメさん


この観音堂へのお参りがライフワークとなったトメさんが89歳でこの世を去ったのは、今から24年前の今日・1992(平成4)年4月22日のことでした。

彼女の生涯や特攻隊員の様子に関して知りたい方には、この書籍をお勧めします。

知覧いのちの物語 「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメの生涯

                       (鳥濱明久・著 きずな出版・刊)


        

著者は、かつての食堂を復元し特攻隊員の記念館となっている 『ホタル館 富屋食堂』 を経営しているトメさんのお孫さん。

彼が子供の頃から見聞きしてきた祖母の姿を、この本で語り継いでいます。

このホタル館には、トメさん直筆のこんな言葉が展示されているそうな。


「命より大切なことがある。 それは徳を貫くことである。」


私は全国の教師や親御さんにお願いしたいのです。
修学旅行や家族旅行には、是非一度知覧を行先にすることを。


そして同年代の若者がどんな思いで短い人生を散らして行ったのか、またトメさんがどんな思いで彼らを送り出したのかを、子供たちに知らしめて欲しいのです。

日本人なら、反日国にわざわざ出かける前に、お国に尽くした先人に敬意を払うべきでしょう。扇子

あらためて〝知覧のマザー・テレサ〟のご冥福をお祈り致します。



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