FC2ブログ
3代目

巷間よく〝3代目が身上を潰す〟と言われます。

確かに苦労知らずのボンボンが先代・先々代が築き上げてきた会社をメチャクチャにする例は数多あります・・・が、逆にその3代目が卒なくこなせば以後会社や組織は安定するのかもしれません。

その好例といえるのが、徳川幕府ではないでしょうか。 


今日は、その徳川幕府の第3代将軍


 徳川 家光


の命日にあたります。


家光は1604(慶長9)年に2代将軍・秀忠と彼の正室である浅井長政の娘・江との間に嫡男(二男)として誕生。 

長男・長丸が夭折したため、乳母を春日局が務めるなど早くから未来の将軍様として育てられました。


12歳の頃には酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3名が守役となり、更には60名以上の小姓がついたといいますから、既に扱いはミニ(?)将軍。

家康の死去のため延期されていた元服を16歳で済ませて名を家光に改めると、3年後には父・秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受け正二位内大臣に。

江戸に戻ると秀忠は隠居し、家光は第3代征夷大将軍となり、鷹司孝子を正室として迎えました。

          

とはいえ当面は秀忠が大御所として政治の実権を握っており、家光に権限は殆どありませんでしたが、1632年に秀忠が死去した後は、彼自身の天下に。

老中・若年寄・奉行・大目付の制度を定め、また武家諸法度を改定(1635年)し参勤交代制度を確立。

※参勤交代に関する過去記事は、こちら(↓)
  http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11703588664.html

またキリシタン弾圧を強化し、1641年までにいわゆる鎖国体制を敷くなど、その後200年余り続く江戸幕府の基礎を築きました。

しかし生来病弱だったといわれる家光は、1650(慶安3)年から諸儀礼を長男・家綱(後の4代将軍)に任せるようになり、翌年4月19日に献上品の茶碗を観ている最中に突然痙攣して昏倒。

翌20日に48歳で逝去しました。

生まれながらのエリートが帝王学を授けられ、辣腕をふるった・・・ようにも見えますが、実は家康や秀忠と違い、自らの独断で物事を決定するタイプではなかったとか。

むしろ土居利勝・酒井忠勝・松平信綱・阿部忠昭ら有能な老中や、柳生宗矩・沢庵禅師など有能かつ多才な人財に恵まれ、彼らの力をうまく利用した人物だったといえます。

アンドリュー・カーネギーの墓碑ではないですが、〝自分より賢き者を近づける術を知りたる者〟だったのかも。

一説には奇行や愚行を繰り返していたとも言われていますが、善意に解釈すれば阿呆を装って周囲の力を集約させていたのかも・・・。

折に触れて江戸市内に出ては庶民の生活を肌で感じていたそうですから、単なる変わり者ではなかったはず。


また祖父・家康を東照宮に祀るなど、創業者を敬う姿勢も顕著。


先代と衝突し、長年仕えてきた年上の忠臣を切り捨て、独断に走って会社を傾けるどこぞの3代目とは、その辺が違っていたと言えましょうか。

ただプライベートでは正室の孝子とは仲が悪く、殆ど別居状態だったそうですが・・・ただそこは将軍様、何人もの側室を愛でていたそうですから、羨ましい限り。あせあせ


あっ、それはともかく、家光の生き様が現代人にも参考になることは確かなようです。




スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック