FC2ブログ
婿養子

今日は、我が母校・慶応義塾にご縁の深い業家、

 福澤 桃介 


の命日にあたります。

その姓から察せられる通り、彼は塾の創始者・福沢諭吉先生の子・・・といっても実子ではなく、婿養子でした。


         

桃介氏は明治維新直前の1868(慶応)に現在の埼玉県比企郡吉見町の農家に生まれました。

父親の岩崎紀一も入り婿で、母サダの生家・岩崎家 (といっても、三菱財閥創業家の岩崎家とは無関係) は裕福な家系でしたが、父が商売に失敗したため家系は苦しく、桃介は裸足で学校に通う有様だったとか。

しかし幼少の頃から頭脳明晰で周囲から神童と言われていた彼は、知人の紹介で1882(明治15)年に慶應義塾に入学。

在学中の運動会でその眉目秀麗ぶりが諭吉翁の妻・錦の目に留まり、在学中の1886年に福澤家の婿養子に。

諭吉翁の援助で2年間アメリカ留学した後、福澤夫妻の次女・房と結婚し福澤姓を名乗ります。

諭吉翁には息子が4人もいながら、なぜ桃介氏を婿養子に迎えたのか?

それは、かわいい娘を嫁には出さず手元に置きたかったから・・・いかな傑物でも、娘に抱く感情は普通の
子煩悩な父親と同じだったということでしょう。


ところが彼は諭吉翁の口利きで北海道炭礦鉄道入社後に肺結核を患い、1894年から療養生活を余儀なくされます。

婿養子の立場で義父に援助は頼めない・・・そう思った彼は、病床で株取引を開始。

時はちょうど日清戦争の勝利で好景気に沸いていたこともあり、勝負勘に優れた桃介氏は10万円(現在の貨幣価値で約20億円)という巨利を手に。        


1901年に諭吉翁が他界すると、桃介氏はこの資金を手に実業界へ進出します。

1906年に瀬戸鉱山を設立したのを皮切りに、翌年には日清紡績を設立。

更に1909年に名古屋電燈の株を買い占めて筆頭株主になったことから電気事業に進出すると、八百津発電所・大井発電所・落合発電所の建設や矢作水力・大阪送電などを設立。

1920年には大同電力(現・関西電力)と東邦電力(現・中部電力)を設立して社長に就任、〝日本の電力王〟と呼ばれるように。


(※木曽川のダム開発に反対し桃介と激しく対峙したのが、作家・島崎藤村の実兄だった島崎広助。 また桃介の慶應義塾の後輩であり、彼の事業を引き継ぎ発展させたのが後に〝電力の鬼〟といわれた松永安左衛門。)

また東邦瓦斯や愛知電気鉄道など中京地区に22もの会社を設立し、〝名古屋発展の父〟とも呼ばれました。


       

     『鬼才・福沢桃介の生涯』(浅利佳一郎・著 NHK出版・刊)

これら旺盛な事業意欲の根底には、彼自身が公言するように金持ちになりたい、という強い官房があったことは間違いないですが、それともうひとつ・・・偉大なる義父・諭吉翁に対する意地というか対抗心もあったように思われます。

養子になった後の2人の関係は決して良いとは言えず、妻・房とはやがて別居するに至ります。

彼が好きになった女性は、慶応在学時に現れました。

それは、日本人初の女優・川上定奴。


芸者だった14歳の定奴が馬に乗っていて野犬に襲われた際、たまたまそこに居合わせた17歳の桃介が助ける・・・という運命的な出会いを果たした2人は、恋に落ちました。

しかし所詮は学生と芸者・・・一緒になることは叶わず、やがて桃介は婿養子となり、定奴は川上音二郎と結婚。

しかし2人の心は離れることなく、音二郎の死後定奴は女優業を引退。


桃介氏50歳・定奴47歳の時から2人は名古屋で同棲を始めます。

(現在も二人の住居は名古屋市内に〝文化のみち二葉館〟として保存されています。)


ダム建設現場にも2人仲良く姿を現したそうですが・・・しかし桃介氏は1928(昭和3)年に体調を崩し、実業界を引退。

結局彼は東京の住まいに戻って晩年は妻・房と暮らすこととなり、彼女に看取られて今から77年前の今日・1938(昭和13)年2月15日に69歳でこの世を去りました。


後世に残る大事業を成し遂げながらも、その生き様の中に何とも言えぬ窮屈さというか悲哀も感じるのは、彼が婿養子という立場だったから・・・そう思うのは、私だけでしょうか?

〝財界の鬼才〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3




スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック