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男 爵

昨年の3月26日、拙ブログでは我が母校・長野高等学校の大先輩・栗林忠道中将の没後70周年の記事を掲載しました。(↓)

    http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20150326.html

硫黄島を死守すべく、アメリカ軍の猛攻を1ヶ月半にわたって耐え忍んだ中将の指揮は、攻撃側のアメリカ軍から高く評価されましたが、実はこの小島で当時栗林中将より遥かに世界的に有名な日本人が戦死しています。

その人の名は、


 西 竹 一 陸軍大佐

今日3月21日が、彼の命日とされています。


        


駐清公使を務めた際には西太后から義和団の乱の処理を巡って厚い信頼を得たとされ、後に外務大臣も務めた西徳次郎男爵の三男として1902(明治35)年に現在の港区西麻布に生まれた竹一少年は、父親の死去により早くも10歳の時に莫大な遺産と爵位を引き継ぎます。


学習院初等科時代は手の付けられない暴れん坊だったそうですが、外交官ではなく軍人の道を選び広島陸軍地方幼年学校に入校。

そこで乗馬を学んだ西氏は帝国陸軍の花形・騎兵を志し、1927年に陸軍騎兵学校を卒業すると陸軍騎兵中尉に。

その3年後に軍務として欧米出張中だった彼は、イタリアで運命の出会いを果たします。

それは後に〝終生の友〟となる名馬・ウラヌス号。

相当なじゃじゃ馬で現地でも手に余っていたというこの馬を、15円で家一軒が借りられたという当時に2,000円(!)もの大金を自腹で支払って手に入れたそうですから、その惚れ込みようが分かります。

しかしウラヌス号は、その投資に十分見合う大活躍・・・ヨーロッパ各地の馬術大会で優秀な成績を残すと、1932年のロサンゼセルス五輪・大障害飛越競技では見事優勝。

西氏は、現在に至るまで馬術競技で日本が獲得した唯一の金メダルを手中に納めたのです。

        



優勝インタビューで、西氏が “We won.” と答えたことは有名。

この後、彼の出自や明るくさっぱりした性格から、〝Baron (※男爵) Nishi 〟と呼ばれて欧米の社交界で人気を集め、これがまだ人種差別の残っていたアメリカに住む日系人の希望の星となりました。

翌年陸軍大尉に昇進し騎兵学校の教官となった西氏でしたが、時代は騎馬から戦車へと主戦力が移行。


また彼が1936年のベルリン五輪で団体6位・個人12位と成績が振るわなかったことで、元々破天荒な言動で軍から白い目で見られていた彼は、その後左遷の憂き目に。


1943年に中佐に昇進したものの、翌年戦車第26連隊長として満州に赴任。
同連隊が硫黄島に動員されたことが、彼の運命を決しました。


硫黄島での戦闘の際、アメリカ軍はバロン西が当地にいることを把握し、

「君を失うのはあまりに惜しい」


と投降を呼びかけたといいます(※否定説あり)が、彼がこの呼びかけに応えることはなく・・・1945年3月17日を最後に音信を絶ち、3月22日にアメリカ軍の掃射により戦死したといわれます。

これに先立つ約半年前、補給のため一時日本に帰国した西氏は、既に引退し馬事公苑で余生を送っていたウラヌス号に会いに行ったそうですが、その時ウラヌス号は西氏の足音を聞いただけで狂喜し、首を摺り寄せてきたことがあったとか。

そのウラヌス号も、硫黄島で散った主人を追うかの如く、その僅か1週間後に亡くなりました。 生前西氏は、


「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた。」

と語ったそうですが、まさに〝人馬一体〟というか〝以心伝心〟というか・・・。

今は天国で再会し、雲の上を疾走していることでしょう。

エルメス社製の特注ブーツをこよなく愛したというお洒落な金メダリストのご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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