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精密機械

現在、内村航平選手らの活躍で再び注目されていますが、かつて体操は〝日本のお家芸〟と言われ、金メダルを量産していました。

ローマ大会(1960)からモントリオール大会(1976)までオリンピックで団体5連覇を成し遂げた時が絶頂期でしたが、そのモントリオール大会で加藤沢男選手が目指した個人団体3連覇を阻んで優勝をさらい、一矢を報いたのがソ連のエース

 ニコライ・エフィーモヴィチ・アンドリアノフ 選手

  Николай Ефимович Андрианов


おそらく50歳代以上の方なら聞き覚えのある名前だと思いますが・・・今日は彼の命日・没後5周年にあたります。

その時日本は東日本大震災直後であまり大きく報じられなかったため、彼が亡くなったことをご存知ない方が多いかもしれません。


      

1952年生まれのアンドリアノフは、父親が家を出たため母子家庭で育ち、貧しさも手伝って子供の頃は結構なワルガキだったとか。

しかし生まれながらにして運動神経は抜群だったのでしょう、11歳の時に体操教室に入ると名コーチのニコライ・トルカチョフに見いだされ、1969年にソ連のユース・チームに選ばれると翌年には代表チーム入り。

1972年のミュンヘンから1980年のモスクワまで3大会連続オリンピックに出場し、7個の金、5個の銀、3個の銅メダルと通算15個のメダルを獲得。

これは2008年の北京大会で16個獲得したマイケル・フェルプスに抜かれるまで、個人獲得の最高記録でした。

彼の演技には華やかさこそ感じなかったものの、どんな場面でも表情一つ変えず淡々と、かつ正確な・・・まるでサイボーグというか精密機械のような演技が強く印象に残っています。

ソ連の女子体操チームのメンバーと結婚し、引退後はソ連のジュニア・チームのコーチを務め、ピーター・シェルボなどを育成。

彼は1992年のバルセロナ大会で1大会6個の金メダルを獲得。


それまでの記録はアンドリアノフが持っていた4個でしたから、まさに恩返し・・・というか、自分を超える選手を創り上げた彼の手腕はさすがといえましょう。

そのコーチ能力に目をつけたのが、王国から長らく低迷していた日本でした。


ベルリンの壁崩壊から始まった東側諸国の政情激変の中、ソ連も崩壊。

それまで金メダリストとして身分を保証されていたアンドリアノフも職探しをしなければならなくなったのですが、その彼にかつて国際舞台でしのぎを削った〝月面宙返り〟の創始者・塚原光男氏が、自分の息子・直也選手のコーチとして招聘。

彼を日本のエースに育てるなど朝日生命体操クラブに2002年まで在籍し、多くの選手を育成しました。


      
             
 アンドリアノフ・コーチと直也選手


近寄りがたい雰囲気から察すると、自分の技術に絶対の自信を持ち、他人の意見には耳を貸さないようにも思えましたが、実は非常に柔軟な思考の持ち主だったとか。

それまでのソ連チームの練習は選手各自が勝手に練習を始めては終わらせるという、およそチームとはいえない自分勝手な集団でした。

しかし彼は日本の礼儀正しく規律を重んじた練習に大いに感じ入ったそうで、彼が個人総合で金メダルを獲得して以降は、そういった日本式の練習スタイルをソ連チームに取り入れ、黄金期を作り上げたといいます。

おそらく2002年に帰国後校長を務めた少年スポーツ学校でも、その規律を取り入れたことでしょう。

やはり素直な心と良いモノは積極的に取り入れる柔軟な姿勢が、チーム強化には大事なんでしょうネ。

ところがやがて進行性の神経障害を患い、会話や手足を動かせなくなってから数か月後の2011年3月21日・・・まだ58歳という、指導者としてはまだこれからと言う時に天に召されてしまったのです。

日本人にとっては体操日本に引導を渡した憎らしい選手・・・ですが、日本で若手を指導し日本式の練習を取り入れた優れた指導者には、心から敬意を表したいと思います。笑3


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