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100本

伊丹十三氏が師と仰ぎ、三島由紀夫氏が絶賛、そして北野たけし監督が強い影響を受けたと公言する映画監督といえば・・・映画ファンなら、もうお分かりですょネ。

そう、それは

 市 川  崑 監督

今日は、この日本映画界を代表する名監督の命日にあたります。


1915(大正4)年に現在の三重県伊勢市の呉服問屋に生まれた市川氏は、4歳の時に父親が急死したため伯母の住む大阪市へ、その後脊椎カリエスの療養で長野県に転地療養し、その後広島へと住まいを転々。

そのおかげで撮影現場では広島弁・京都弁・和歌山弁が入り混じっていたとか。(これ、転勤族だった私にはよく分かります。)あせあせ


当初は画家に憧れていたという市川氏でしたが、伊丹十三氏の父・万作氏の監督作品 『國士無双』 を観て感動、映画界入りを決意。

ディズニー映画にも影響を受けた彼は、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(後の東宝・京都撮影所)のトーキー映画部に入社し、アニメーターを務めました。

そこで 『ミッキーマウス』 などアニメ映画の一コマ一コマを克明に研究し映画の本質を学んだ彼は、脊椎カリエスのおかげで2度の召集令状を免れると漫画部の閉鎖に伴って実写映画の助監督に。

そして京都撮影所が閉鎖されたため、東京・砧撮影所に異動。

この撮影所が以降市川監督の本拠地となりました。


彼の監督デビューは1948年の『花ひらく』。

(※同年に結婚した妻・和田夏十(本名・市川由美子)さんは、以後病に倒れるまで殆どの市川作品の脚本を担当されました。)


1955年に日活に移籍してメガホンを取り、翌年公開された 『ビルマの竪琴』 がヒットし、名監督の評価を得ることに。

その後 『おとうと』 (1960年)など毎年のように名作を世に送り出しましたが、最も市川監督を有名たらしめたのは 『東京オリンピック』(1965年)でしょう。


        
          『東京オリンピック』撮影中の市川監督


この作品は、試写を見た当時のオリンピック担当大臣・河野一郎(※河野洋平氏の父)氏の「記録性に欠ける」という批判から、〝記録か芸術か〟という論争に発展。

しかし学校で上映されたことも相まって、観客動員数は2,350万人に及び、『千と千尋の神隠し』 に抜かれるまで、長期間にわたり日本映画における最多観客動員記録を保持。

以降も多くの名作を生み出すと同時に、急速に普及したテレビにも着目。

多くの映画関係者がテレビに対して敵愾心を抱く中、テレビドラマやCM撮影などを積極的に手がけました。


奥様を乳がんで1983年に亡くされた後も創作活動は衰えず、90歳を超えてもなお現役監督として現場に出続けていた市川監督ですが、今から7年前の今日・2008(平成20)年2月13日・・・肺炎により92歳の生涯に幕を閉じられました。


数ある作品の中で、私が印象に残っているのは、まず 『犬神家の一族』(1976年)。

高校生の時に劇場で観ましたが、あの上半身が湖に突き刺さっているシーンは衝撃的で、夢にまで出てきたことを憶えています。

テレビドラマでは、なんといっても1972~73年にかけて放映された『木枯らし紋次郎』シリーズ。

主役・中村敦夫の名台詞、「あっしには関わりのねぇことでござんす」 は社会現象まで引き起こしました。

また比較的新しい作品としては、評価が分かれた忠臣蔵モノの 『四十七人の刺客』 も・・・しかし個人的に何度も観ているのは、やはり『東京オリンピック』。


冒頭に日の丸を象徴する太陽の映像から始まり、戦後復興を象徴する建設現場の槌音、富士山の前を通り過ぎる聖火ランナーの姿・・・そして開会式でオリンピック・マーチに乗って整然と行進する真っ赤なブレザーに身を包んだ日本選手団の姿を見るたびに、私は落涙してしまいます。


個性的なキャラクターの持ち主が多い映画監督の中にあって、非常に温厚な性格で多くのスタッフや役者さんたちに慕われたという市川監督は、チェーン・スモーカーとしても有名。

1日100本は欠かさず吸い続け、手を使わずに抜歯した歯の隙間にタバコを挟んでいたことは有名。

そんな市川監督が遺した作品は、映画・テレビドラマ合計で約100本。

獲得した映画賞は数知れず、また旭日重光章など幾度となく顕彰を受けた日本映画界の巨匠のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3

さて、皆さんの思い出に残る市川作品は、100本の内のどれですか?



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