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生 還

当時私は高校入学を目前に控えていた中学3年生でしたが、今でも鮮明に憶えています。 

それは、今から42年前の今日・1974(昭和49)年3月12日に、旧日本兵の


 小野田 寛郎 少尉

が終戦後29年間潜伏していたルパング島から、日本に帰国したこと。

フィリピン防衛を主任務とする第14方面軍情報部付として1944年にフィリピン入りし、重要拠点だったルバング島に着任した小野田少尉は、翌年2月のアメリカ軍による艦砲射撃から逃れるため島の奥地に潜伏。

その後も任務解除命令がなかったため、そのまま現地に留まったといいます。

陸軍中野学校で遊撃戦の訓練を受け、また師団長から玉砕を厳禁されていた彼は、その後仲間と共にゲリラ活動を続行。

潜伏中に手に入れたトランジスタラジオで日本の短波放送も聞き、競馬中継も楽しんだそうですが、それでも30年近いゲリラ活動中にはアメリカ駐留軍基地を100回以上攻撃し、アメリカ兵士やフィリピン警察軍など30人以上を殺害したとか。

しかし仲間の死亡により孤独に苦しめられるようになった小野田少尉は、彼に会うためにルバング島入りした24歳の若者・鈴木紀夫さんと出会います。

「命令があれば山を降りる」 という言葉を聞いた鈴木さんが、元上官の谷口義美少佐を連れて再度ルバング島へ。

そして少佐は作戦中止命令を口達・・・小野田少尉の戦いは、皮肉にもかつて陸軍記念日だった3月10日に終わり、その2日後に祖国の地を踏んだのです。

※ちなみにこの鈴木さんは、「小野田少尉・雪男・パンダ
と会うのが夢」 だったそうで、この後イエティ探しのためヒマラヤ入りし1886年に雪崩に巻き込まれ遭難・・・37歳でこの世を去っています。

フィリピンのマルコス大統領は小野田少尉を「立派な軍人」と評価し、戦後の戦闘行為やフィリピン人殺害に関して罪を問うことなく出国を許可。

晴れて小野田少尉は帰国することができたわけです。

私が最も強く印象に残ったのは、当時の小野田少尉の〝眼〟。


        


〝鋭い眼光〟という言葉がありますが、まさにそれ。

それまで少尉のような殺気を帯びた射るような眼光を持つ人を見たことがなかっただけに (あぁ、軍人さんってこういう目つきになるんだ・・・) と少なからずショックを受けたものです。

その後小野田さんは日本政府から渡された見舞金100万円を全て靖國神社に寄附し、次兄のいるブラジルに渡航して牧場経営に成功。

しかし金属バットで両親を撲殺する事件が起きたことを知り、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本に心を痛めた彼は、健全な日本人の育成するため1984年に 『小野田自然塾』 を開設。

自らの密林サバイバル経験を生かして、1万数千人の子供たちに自然の中で生きる術を教えました。

残念ながら小野田さんは2014年1月に91歳で他界されましたが、彼の実体験に基づく教えは今でも書籍などを通して得ることかが出来ます。

の中の一冊が、


 『たった一人の30年戦争』 (東京新聞出版局・刊)


      


同書の最後には、こう記されています。

〝 戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。
  戦後、日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。
  何か命がけでやることを否定してしまった。

  覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。
  死を意識しないことで、「生きる」 ことを疎かにしてしまっては

  いないだろうか。 〟

この小野田さんの言葉を、私達日本人は深くかみしめる必要があるのではないでしょうか?

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