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老 死

認知症老人が線路に入り込んで列車にはねられたことで鉄道会社から遺族に対して賠償を請求した裁判で、今月1日に最高裁から逆転無罪判決が出されました。

妥当な判断だ、と判決を支持する意見がネット上では多く見受けられましたが、多分にそれはJRという大会社が老老介護に苦しむ家族を虐めているかのような感覚があったからなのかも。

しかし家族の監督責任の有無に関しては明確な線引きは示されず、また720万円という損失を誰が補填すべきなのかは、判然としません。

もし認知症の高齢者が徘徊の末に赤信号の横断歩道に侵入して自動車にはねられたら、その自動車の修理費用は本人や家族に請求できなくなるかも・・・などと考えると、この判決は決して他人事ではないでしょう。

ますます高齢化が加速する日本で、これから私たちはどう歳を取るべきなのか? 

この誰もが避けて通れない問題に関し、以前ビートたけし師匠・・・いや北野武氏は、著書 『超思考』 (幻冬舎・刊)の中で、こう述べています。

          ◆     ◆     ◆     ◆

人は老いるものだ。

歳を取っても、元気なうちはいい。 
第二の人生だなんて言って、趣味でもなんでもやればいい。

けれど、自分で自分始末が出来なくなった途端に慌てることになる。
生きる苦しみが、テレビの向こう側からこっち側にやってくるのだ。

子供には好きなように生きなさいと教えてきたわけだから、そこで子供から親の介護なんてまっぴらだと言われても、それは仕方がない。

自分か子供にカネがあれば、テレビ越しにそうしてきたように、カネで解決するのは簡単だ。
至れり尽くせりの、ホテルのような老人介護施設で死んでいけばいい。

ところが現実にはそういうわけにはいかない人が大半で、だからこそ年金だの老人介護だので、世の中が大騒ぎしているわけだ。

つまり、現代の老人問題は、老人の世話をカネで解決しているがゆえの問題であるとも言える。


          


昔は年金も介護制度もなんにもなかったのだ。

世の中は今よりもずっと貧乏だったのに、老人問題なんてものは問題にも何にもならなかった。

大家族で、みんなが貧乏で、人と人が肩を寄せ合わなければ生きられない時代には、若い者が年寄りの世話をするのが当たり前だった。

『楢山節考』みたいな話もあったけれど、そういうこともひっくるめて、それが生きるということだった。

苦しいからこそ、人と人は本心から助け合う。
お涙頂戴の、エンターテイメントとは全くの別物だ。
なにしろ他人の話ではなく、自分のことなのだ。

誰もがそういう覚悟をして生きていた。
人生が苦しみに満ちたものだということを誰もが知っていた。

年寄りも若い者も、その覚悟が全くできていないということが、現代の老人問題の本質なのだと思う。

人生を浮かれて生きるのもいいけれど、人は老いて死ぬものだということから目を逸らしたら、いつか大きなしっぺ返しを受けるに決まっている。

俺はといえば、おそらく死ぬ瞬間まで今の自分が最高だと思いながら生きるだろう。

なんと言っても、最後の最後に最大の楽しみが待っている。

死んだらどうなるのか? 

魂はあるのかないのか? 

神はいるのかいないのか?

死ねば、人生最大の疑問の答えが疑問の答えが出るのだ。

もちろん単に肉体と精神が分子レベルでバラバラに分解して、無に帰するに過ぎないのかもしれない。

そうなったら、疑問の答えどころではないけれど、それでも死の直前までワクワクしながら生きられるわけだ。

          ◆     ◆     ◆     ◆

皆さんは、どういう老後の過ごし方をしたいと思っていますか?

死ぬまでの・・・また死んでからの楽しみは、ありますか?あせあせ



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