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御意見番
その昔、TVドラマや映画で魚屋の一心太助とペアを組んでお茶の間を沸かせた

 大久保彦左衛門

今日は、この〝天下の御意見番〟として有名な、戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川三代(家康・秀忠・家光)に仕えた武将の命日にあたります。

1560年、現在の愛知県岡崎市に徳川家臣・大久保忠員の八男として生まれた彦左衛門(本名・忠教)は、兄と共に17歳の時に初陣を飾り、1585年には真田昌幸との上田城の戦いでも奮戦。

更に1660年の関ヶ原の戦いでも家康の本陣で槍奉行を務めました。

その後甥の忠隣が起こした事件に連座して一時的に改易されたものの、家康直臣の旗本として召し出され1,000石を拝領すると、3代・家光の代には旗奉行 (※旗本の名誉職) となり、更に1,000石を加増されました。


        


1639(寛永16)年2月1日に79歳で没しましたが、その直前に家光から5,000石の加増を打診されたものの 「余命幾ばくもない自分には不要」 と固辞したという、いかにも武士らしい硬骨漢だった彦左衛門。

しかし信長や秀吉と違い、彼は天気統一を目指した一国の主ではなく、単なる家康の一家臣。

さらに性格的にも偏屈なところがあったといわれる彦左衛門が、何故400年の時を経ても人気者として高い知名度を保っているのでしょうか?

その要因としては、彼が晩年に認めた 『三河物語』 があげられましょう。

ともすると彦左衛門の自叙伝と思われがちですが、これは本来大久保家門外不出で彼が子孫に向けて大久保家の歴史と教訓を書き残した〝家伝書〟。

これがなぜか彼が存命中の内から写本が市井に出回り、多くの人に読まれることに。

中身としては、代々謀反を起こさなかった大久保家が今後とも主君に忠誠を誓うよう諭すなど、固く地味な内容。

また行間からは、武功を多々残しながら泰平の世になったことで武士の立場が低くなったことなど世の中に対する不満が率直に感じられます。

それは多分に、他人に読まれないことを想定していた故、筆にブレーキがかからなかったからなのでしょう。


そういった物言いと心情が当時の人々に受け入れられ、やがて〝直言居士〟として将軍に歯に衣着せぬ物言いをする御意見番としてのイメージが、講談等を通じて出来上がったといえます。

一心太助も架空の人物と言われていますが、この二人の名コンビは『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さん同様、庶民の間に人気者として定着したのです。


彦左衛門に関して詳しく知りたい方には、この本がオススメ。

 『怪傑! 大久保彦左衛門』 (百瀬明治・著 集英社新書)

        


しかし明治時代に入って、大久保家は生活に困窮してこの『三河物語』の原本を売りに出してしまいます。

それを200円(現在の貨幣価値で4~50万円)で買い取ったのが、あの勝海舟。

そして昭和9年に一旦大久保家に戻されたのですが、また数年後に売却したとか。

現在その自筆原本は回りまわって愛知県豊川市の穂久邇文庫が所有し、重要文化財の指定を受けているとのこと。

自筆の家訓書を子孫が売り飛ばして生活費に充てたことを草葉の陰から天下のご意見番が見ていたら、さぞ情けなかったでしょうネ。ダメだぁ顔

しかし当時の歴史を知る貴重な資料として国家の資産と認定されたのですから、それはそれで喜んでいらっしゃる・・・そう信じたいです。

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