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15歳

今から312年前の今日・1703(元禄16)年2月4日、赤穂浪士たちが黄泉の国へと旅立ちました。

そう、討ち入りを果たした彼らが幕府の命により切腹して果てたのです。

今日はその中で最年少・・・弱冠15歳だった
  おおいし ち か ら よしかね
 大石主悦良金


すなわち大石内蔵助の長男にスポットを当ててみます。

主税は1688(元禄元)年に赤穂で城代家老・大石内蔵助の嫡男として生まれ、幼名を松之丞とつけられた彼は大変聡明で、子供がいなかった主君・浅野長矩に大変可愛がられたといいます。

その浅野長矩が江戸城・松の廊下で吉良上野介に斬りつけるという刃傷事件を起こした時はまだ元服前の13歳。

しかし内蔵助から明科で仇討の心中を聞かされ、「まだ部屋住(家督相続前の嫡子)の身ゆえ、好きにせい」 と言われた彼は、共に行動する決意を父に伝えます。

それを聞いた内蔵助は彼を元服させ名を主税良金とし、討ち入りの同志に加えました。


ともすると彼は内蔵助の息子ということでしか注目されませんが、実は討ち入りに関して大きな役割を果たしています。

映画・ドラマでは(時間的制約もあってか)赤穂浪士たちは大石内蔵助の意志に沿って団結していたかのように描かれがちですが、実際には一枚岩ではありませんでした。

少しでも早く仇討をといきり立つ堀部安兵衛ら急進派を抑えるべく、彼は人質(というか内蔵助江戸入りの保証人)として父よりも先に江戸入り。

更に討ち入り当日には十文字槍を手にした彼は、若手剣豪が集まり主戦場となった吉良邸裏門隊の大将を務めると、抜け穴を発見して真っ先に飛び込むなど内蔵助を上回る活躍をし、見事上野介を討ち本懐を遂げたのです。


         

上野介の首を持って主君・浅野長矩の眠る泉岳寺に仇討の報告に参った浪士たちは4つの大名家に分かれて預かりの身に。

この時内蔵助は熊本藩主・細川家、主税は伊予松山藩主・松平家にそれぞれ別々に預けられます。


預かり中の彼は、罪人というよりもVIP待遇。

座敷牢どころか、邸内を自由に歩き回ることが出来、食事も寝酒まで出される厚遇で彼自身が辟易とするほどだったとか。

逆に彼が風邪で高熱を発した時は、逆に松平家が焦ったそうな。

(※もっとも、毛利家・水野家に預けられた浪士たちは、それほど厚遇ではなかったそうですが・・・。)

しかし2月4日当日は他の浪士に先んじて最初に腹を切り、その態度は検死役人が感じ入って泣いたほど堂々としたものだったといいます。


辞世の句は

  〝あふ時は かたりつくすと おもへども

                   わかれとなれば のこる言の葉〟


顔を合わせていた時はもう十分語り尽くしたと思ってたのに、いざ別れとなるともっと話したいことがあった・・・泉岳寺以降再び会うことのなかった父や、郷里に残した母を思う少年の心情が滲み出ていますょネ。


当時の日本人男性の平均身長が150cmなかったそうですが、主税の五尺七寸(約172cm)と大柄でかつ美男子。

頭脳も明晰で、将来は小柄だった父・内蔵助を凌ぐ城代家老になったと言われた逸材は、現代で言えば中学3年生で儚く世を去りました。

しかしその15年余の人生は義と情に捧げた悔いなきものだった、と信じたいところ。


少なくとも凡庸に50年以上生きている我が人生より、遥かに濃密なものだったでしょう。


最後に、映画などの脚色された忠臣蔵でなく討ち入りの真相を知りたい方に、本を一冊ご紹介致します。 表題はズバリ、

 『これが本当の「忠臣蔵」』 (山本博文・著  小学館新書・刊)

      

同書には、


 ◆ 実は、ほとんどの浪士は切腹していない。
 ◆ この日絶命したのは〝四十七士〟なのに46人、でも泉岳寺には墓が48ある。

等々、興味深い史実がいくつも書かれています。

これを読み返しつ、他の義士達と共に散った若武者の冥福を祈るばかりです。笑3



           

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