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栄 華


日本史上、最も栄華を欲しいままにした人物・・・といえば、私は2人の人物を思い浮かべます。


1人は平清盛。 そして彼以上に権勢を誇ったと思われるのが


 藤原 道長


今日は、この平安時代に全盛を誇った藤原一族の中でもその頂点に立った公卿の命日にあたります。


道長は966(康保3)年、祖父・藤原師輔は右大臣、父・藤原兼家は後に摂政を務め、母・時姫も摂政・藤原中正の娘という超セレブ一族の五男(兄2人・姉2人)として京都に生まれました。


幼少の懐仁親王が即位(一条天皇)して(外祖父の)兼家が摂政に任じられると、彼は息子たちを立て続けに出世させ、道長も21歳で従三位に叙せられ時を前後して左大臣・源雅信の娘・倫子と結婚し、また左大臣・源高明の娘・明子をも妻として迎えます。


父・兼家が990年に死去し、長男・道隆が関白から摂政に任じられましたが、彼は酒の飲み過ぎで995年に逝去。


さらに次兄・道兼もその数日後に病死してしまい、図らずも道長に権力者への道が開けます。


一条天皇の母であった道長の姉・詮子の力添えもあり、道隆の子・伊周との勢力争いに勝利した道長は、天皇の後見役的存在であった関白にはならず、実務的に権力を持つ右大臣(後に左大臣)の地位に留まります。

(※道長は晩年法成寺を建立したことから〝御堂関白〟とも呼ばれていますが、生涯において関白になったことはありませんでした。)


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


999年、道長は長女・彰子を一条天皇の女御にすると、翌年既に后がいるにもかかわらず彼女を強権を以て皇后にし、前代未聞の一帝二后体勢に。


そして次の三条天皇(一条天皇の従兄)にも次女・妍子を皇后として迎えさせた道長は、やがて対立するようになった三条天皇を眼病を理由に退位させ、後一条天皇が即位。


四女・威子は彼の中宮となりました。


既に長男・頼通に摂政の座を譲っていた道長が、威子が立后した1018年10月16日に自邸で祝宴を開き、その座で詠んだ


〝この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば〟


は、その権勢を誇示する歌として、あまりにも有名ですネ。 


政治的には大きな危機を迎えることなく、専ら自分の娘たちをはじめ女性を巧み利用し天皇家を支配することで長く権勢を誇った道長でしたが、贅沢な食事や毎夜の宴会、さらには運動不足のせいで50歳過ぎからは糖尿病に苦しめられたとか。


父・伯父も糖尿病だったそうですから遺伝的な要素が強いとはいえ、肥満が著しく望月の歌を詠んだ頃は殆ど失明状態だったようですから、いかに贅沢な暮らしをしていたかが伺えます。


彼が33歳から56歳まで認めた『御堂関白記』 は現在国宝に指定されており、平安時代を知る上で非常に貴重な資料となっていますが、それほど長期間にわたって日記を続けられるほど、日々の生活は安定していたのでしょう。


『源氏物語』 の主人公・光源氏は道長がモデルともいわれ、紫式部自身も彼のお妾さんだったようですから、1028(万寿4)年12月4日、糖尿病の悪化(?)により62歳でこの世を去った道長は、歴史上稀なほど長期安泰な権力者だったと言えましょうか。


もし当時インスリン注射があったら彼はもっと長生きし、日本の歴史も変わっていたかもしれませんネ。あせあせ


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