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未完成

学校の音楽室には多くの作曲家の肖像画が壁に貼られていましたが、大抵の場合ベートーヴェンの隣には、眼鏡をかけた穏やかな顔の


 フランツ・ペーター・シューベルト

     Franz Peter Schubert


がいたはず。

今日は、その肖像画の順番の如く古典派とロマン派の橋渡し的な役割を果たし、ひときわ美しい旋律を紡ぎ出した彼の
命日にあたります。


        


シューベルトは1797年、教師だった父の14人の子供 (うち成人したのは5人) のうち12番目(成人した中では4番目)の子としてオーストリアのウィーン郊外に生まれました。

アマチュア音楽家だった父親は子供たち全員に音楽を教えたのですが、その中でもフランツの才能は図抜けていたそうな。

8歳の頃に父親からヴァィオリンを習い始めるや、めきめき上達してすぐに兄を追い越してしまったシューベルトは、リヒテンタール教会の聖歌隊に預けられるとその才能を高く評価され、教会に備えられたピアノを自由に演奏することを許されました。


そして11歳の時にコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得て、そこで映画 『アマデウス』 に登場したモーツァルトの好敵手・サリエリの指導を受けます。

その当時から作曲の才能を周囲に認められ、友人がお金を出し合って彼に五線紙を買い与え援助したといい、その期待に応える形で彼は
コンヴィクト在籍中から室内楽・歌曲・ビアノ曲を数多く残し、また交響曲第一番をも作曲しています。

1813年に声変わりしたため聖歌隊を去った彼は、身長150cm余りと小柄かつ虚弱体質だったために兵役を免れると、翌年に父親の勤務する学校に教師として入職しますが、その後も作曲は精力的に継続。

この時期に、有名な歌曲 『野ばら』 や 『さすらい人の歌』 などを作曲しています。

そして1816年には友人の勧めで教職を辞め作曲に専念すると、その後も友人たちの援助を得て次々と作品を生み出しました。

やがて友人の輪は音楽家にも広がり、後にシューベルトを称える音楽会〝シューベルティアーデ〟へと発展。


そして1822年には信奉するベートーヴェンに曲を献呈し、彼もまた 「シューベルトの中には確かに神のような閃きがある」 とその才能を高く評価。


しかしそのベートーヴェンが1827年に死去。

その葬儀に参列したシューベルトは、その後友人たちと酒場に行き、

「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」

と音頭を取ったそうですが・・・なんと、それは彼自身になってしまいました。

既に体調を崩していた彼は、その葬儀の翌1828年春に人生ただ一度の自作品の演奏会を開いた約半年後の11月19日、31歳という若さでこの世を去ったのです。

死因は魚料理を食べたことによる腸チフス、あるいは女性からうつされた梅毒などとする説があります

       

        『フランツ・シューベルト』 (渡邊學而・著 芸術現代社・刊)

短い人生でしたが、彼の作曲スピードは驚異的で、生涯に約1,000曲もの作品を残しています。

その内600曲が 『冬の旅』 に代表される歌曲だったことから、彼は別名〝歌曲王〟ともいわれています。

私が最初に聴いた彼の作品は、おそらく音楽の時間に流された名バリトンのF・ディスカウが歌う 『魔王』。

地の底から悪魔が湧き出てくるような不気味さを感じたことを、おぼろげながら憶えています。

そして一般的に最も良く知られているのは、交響曲 『未完成』。

実は彼の遺した交響曲は全部で14曲あり、そのうち未完成は6曲もあるのです。

中でも有名なのは、第7(8)番。

よくベートーヴェンの交響曲第5番 『運命』 とカップリングでレコード・CDが売り出される名曲ですが、通常交響曲は4楽章あるはずなのに、この作品は第1・第2楽章(と第3楽章の20小節)のみ。

それでもその完成度の高さから後世に残る立派な作品として高く評価されているのです。

それではカラヤン/ベルリン・フィルが奏でるその幽玄な旋律を聴きながら、後世ロマン派のシューマン、メンデルスゾーン、プラームス、ブルックナー、R・シュトラウスなど錚々たるロマン派の大作曲家に影響を及ぼした天才作曲家の冥福を祈りたいと思います。(

    https://www.youtube.com/watch?v=yB6SuHNQobA








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