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鉄 腕

・・・アトムのお話ではありませんョ。

プロ野球には、今後まず破られないであろう〝不滅の記録〟がありますが、その中のひとつに投手の年間最多勝42勝が挙げられます。

現在のようにローテーションが確立し、先発投手が年間30試合以上投げない状況下では、この数字を超えることはまず不可能。

この驚異的な数字を残している投手は、日本ブロ野球界に2人います。

1人はV.スタルヒン(巨人)。そしてもう1人は、1961年に達成した

 稲尾 和久 投手


今日は、〝鉄腕〟と謳われ西鉄ライオンズの黄金期を支えたこの大エースの命日にあたります。


スタルヒンがこの日本記録を打ち立てる2年前の1937(昭和12)年、大分県別府市で7人兄弟の末っ子として生まれた稲尾少年は、父親が稼業の漁師を継がせようとして、早くから櫓を漕いで海に出ていたといいます。

中学時代は捕手だったそうですが、驚くべきことに高校時代は全くの無名。

それでも南海が契約寸前までいったのですが、父親の「万一の時は大坂よりも九州の方が近いから」というツルの一声で、後から獲得に動いた西鉄ライオンズと1956年に契約。

しかし無名だったがゆえに、当初は選手というよりバッティングビッチャー扱い。

「バッターが疲れるから、4球に1球はボールを投げろ」 と命じられたとか。

しかしさすがは稀代の大投手となった稲尾投手・・・普通ならクサッて適当に投げるところですが、ここからが違います。

彼はその1球外せと言われたボールでストライクゾーンぎりぎりに投げる練習を密かに行い、制球力を身につけたのです。


その抜群のコントロールを目の当たりにした中西・豊田ら野武士軍団の推挙もあり、稲尾投手は開幕から1軍入り。

1年目からいきなり21勝、防御率1.06という戦績をあげて最優秀防御率と新人王を獲得、一躍エースの座に。

以後1963年まで8年連続20勝以上をあげ、入団7年目という史上最速で200勝を達成しましたが、圧巻は1961年の42勝。

元投手だった私が信じられないのが、この年投球回数が404で対した打者が1,554人もいたに、四死球がたったの6個だったこと。

いかにコントロールが良かったかが分かります。


         

そして彼の名を全国区にしたのは、何といっても1958年・・・私が生まれた年の日本シリーズ。

この年レギュラーシーズンで史上初の2年連続MVPを獲得した稲尾投手は、このシリーズで大車輪の活躍。

宿敵・巨人に3連敗して土壇場に追い込まれた西鉄は、その後の4試合全てに稲尾投手を登板させて勝利を収め、奇跡の逆転優勝。

全7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。

うち5試合に先発し4完投という、現代では考えられない離れ業を演じた稲尾投手に対し地元新聞がつけた見出しが、あまりにも有名な

〝神様 仏様 稲尾様〟


でした。 しかしその稲尾投手も先発・抑えとフル回転の酷使で肩を故障し、1964年には1勝も出来ず1969年に引退。

(といっても、その間42勝もしているのですが・・・。)

通算276勝という日本球界歴代8位の記録を残した彼は、その後西鉄・ロッテの監督や中日の投手コーチ、また解説者などを務め、長くプロ野球界に貢献されました。

私自身は稲尾投手の現役時代を知りませんが、解説者としてテレビに登場した彼の人懐こい笑顔と分厚い胸板、それに人間離れした肩幅の広さは今でも目に焼き付いています。


そんな頑強な身体に恵まれた稲尾氏も、病には勝てず・・・今から8年前の今日・2007年11月13日、悪性腫瘍により70歳で天に召されました。


私には、稲尾投手に関して忘れられないエピソードがひとつあります。

これはご自身が依然テレビ番組で語っておられたのですが・・・西鉄のエースになって少々天狗になった時、ある試合で何の変哲のないショートゴロを先輩の豊田選手がポロポロとエラー。

しまいには捕りに行こうとさえしなかったというのです。

それは稲尾投手が 「オレ一人でも勝てる」 というふてぶてしい態度を見せ始めたことに対する、先輩の愛のムチ・・・つまり、故意にやったエラーでした。

それにハッと気づいた稲尾投手は、怒るどころか豊田先輩ら野手に頭を下げて謝ったのだとか。

さすがは野武士軍団、やることがハチャメチャ・・・でも、そんな野球も観てみたい気がします。

確かに鉄腕ではありましたが、それだけでなく頭脳的な投球術を編み出した先駆といえる〝稲尾様〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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