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謀 殺

泣かぬなら 殺してしまえ ホトトギス〟

織田信長の性格を表すといわれる、有名な一句ですが・・・今日は、それを彷彿とさせる出来事が起こった日なのです。 彼の実弟、

 織田 信行

が信長に謀殺されたのが、今から458年前の今日・1557(弘治3)年11月2日のことでした。

信行(信勝、達成、信成とも)は、父・信秀、母・土田御前の間に信長の2年後・1536年に生まれた・・・とされていますが、詳細は分かっていません。

信秀には、信長の上に信広という兄がいますが、彼は母親が側室であったため家督相続権はなく、織田家の実質的な長男は信長であり、信行は№2の立ち位置でした。


兄がしっかり者で弟がヤンチャ・・・というのが、一般的な兄弟像だと思いますが、織田家の場合は真逆。

1551(天文20)年に亡くなった父・信秀の葬儀の際には、信長が仏前で抹香を投げつけるという愚挙に出たのに反し、(15歳の)信行は、正装で礼儀正しく振る舞い、周囲からは信長以上の世継ぎ候補と目されるように。

そして1555(天文24)年、織田家代々の当主が名乗っていた〝弾正忠〟を信長を差し置いて名乗り始め、兄との対決姿勢を鮮明にしました。

そしてその翌年、叔父・信次(父・信秀の弟)が領内で家臣を連れて狩りに出ていたところを、信行の弟・秀孝が単騎で通りかかり、領主の目前にも関わらず馬から下りなかったため家臣が怒り威嚇のため矢を放つと、これが誤って当たってしまい、秀孝は死亡。

信長の弟を殺してしまった信次は慌てて逐電しましたが、収まらなかったのは信行。

軍勢を率いて信次の居城・守山城下を焼き払ってしまいます。

しかし意外(?)にも信長は「秀孝にも非がある」として信次を再び守山城主に戻すと、家臣らは弟思いの信行をより評価するように。

そして同年、信長の義父・斎藤道三が息子・義龍と争いの末に殺されると、これをチャンスとばかりに林秀貞・林通具・柴田勝家を味方につけて信長に反旗を翻します。(稲生の闘い)

信長公記によれば、この時信長の軍勢約700に対し信行軍は約1,700と圧倒的に有利・・・だったのですが、戦場での信長の大きな怒声に恐れをなした信行軍はあっけなく敗北。

信行は彼を信長より可愛がった母・土田御前の懇願により、柴田勝家らと共に辛うじて命は長らえます。


        


しかし信行はこれに懲りませんでした。

翌年、彼は信長と疎遠になっていた岩倉城主・織田信安と通じて再度謀反を画策・・・しかし、今度は柴田勝家がこの策略を信長に密告。

これを知った信長は自ら仮病を装って見舞いに来るよう信行に伝え、それを真に受けた彼が11月2日にノコノコと清州城に来たところを、信長の配下に謀殺されてしまいます。 


(※信長の眼前で切腹したとの説あり。)


まだ21歳の若さで・・・戦国の世にあっては、ただ品行方正・正直なだけでは生きていけなかった、ということでしょうか。

信長公記によれば、勝家が信行を裏切ったのは彼の男色の相手役だった津々木蔵人という人物が重用されて勝家をないがしろにしたことに怒ったから・・・と記されていますが、もしかしたら勝家は、信行の将としての限界を見切ったのかもしれません。

ちなみに信行には津田信澄という子がおり、彼はまた土田御前の取り成しにより助命され、柴田勝家によって育てられ、織田家のために働きました。

しかし明智光秀の娘を嫁に迎えたため 『本能寺の変』 直後に内通を疑われ、信長の子・信孝らに殺害されてしまいます。

父は兄に、子は兄の子に、2代にわたって殺される・・・戦国時代の酷さ・虚しさを痛感させられます。うー


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