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議 長

昨年、元慰安婦報告書の検証報道によって〝河野談話〟に正当性が無いことをスクープし、朝日新聞の記事取り消しを端緒を作ったのが産経新聞。

同紙を含め、フジテレビ・ニッポン放送などを中心に1967(昭和42)年に組織されたのがフジサンケイグループ。 


今日・10月28日は、この従業員1万人を超えるメディア・コングロマリットの創業者にして同グループ会議・初代議長だった

 鹿内 信隆 


の命日・没後25周年にあたります。


          


鹿内氏は1911(明治44)年、北海道夕張郡由仁町生まれ・・・財閥や資産家の出ではありませんでした。

父親は撮影技師から歯科医に転身した変わり種で、母親が写真館を経営するという、当地ではかなり風変わりな家庭に育ちました。

1929年に単身上京し、早稲田第一高等学院から早稲田大学政経学部に進学。

卒業後に教授の勧めで倉敷絹織(現・クラレ)に就職したことが、後に彼が実業界に躍り出る端緒となりました。

彼の後見人となったのが、同社専務で実質的な社長だった菊池寅七だったのです。(信隆氏の妻は、この菊池氏の次女・英子さん)

1938年に応召し陸軍入りした彼は主計少尉となり、軍出入りの民間企業幹部と知り合った鹿内氏は、軍用に設立された大日本再生製紙の担当事務官となり、除隊後は日産コンツェルンが支援する日本電子工業や経済同友会の創設に参画。

これが戦時中に知遇を得た、後に〝財界四天王〟の1人に数えられる日清紡の櫻田武社長に高く評価され、彼と共に日本経営者団体連盟(日経連)の設立に尽力。

軍部での人脈を生かし、敗戦・公職追放による財界大物のパージという時代の波にまだ30歳代でありながら口八丁手八丁だった信隆氏がうまく乗った、と言えましょうか。

そして櫻田総理事&鹿内専務理事のコンビで当時全国で展開された共産党主導の労働運動と対峙したことから、更に政財界での人脈を拡げます。

(とは言え、彼自身が団体交渉に出席したことはなかったようですが・・・。)

当時の財界は共産党をはじめてする左翼勢力の台頭に危機感を抱き、それに対抗するマスメディアの設立を画策。

そこで1954年に大企業200社以上が共同出資してニッポン放送を、更に3年後にはフジ(富士)テレビジョンを設立。 

鹿内氏は1961年にニッポン放送、1964年にフジテレビ、そして1968年に産経新聞社の社長に就任し、ラジオ・テレビ・新聞という当時の三大メディア全てを掌握。

議長という他の企業には見られない地位に就くと、フジサンケイグループの最高権力者・大株主として君臨しました。


       

         『指導者 カリスマの秘密』 鹿内信隆・著 講談社・刊

徹底した合理主義を導入する一方、会社設立の経緯から社内の組合活動をあからさまな左遷人事や大量の解雇などで徹底的に弾圧するなど、その経営手法には賛否両論が。

また一旦は長男・春雄氏に経営を任せ引退したものの、春雄氏が1988年に急死すると議長に復帰し、娘婿・宏明氏を議長代行に。

そして2年後の1990年10月28日、78歳でこの世を去りました。

その後のグループは、宏明氏が第3代議長に就任したものの社内クーデターにより失脚し、鹿内家の支配力は急激に減退。

しかしその後はライブドアによる株買い占め騒動や韓流ドラマ放送に対する抗議行動などで視聴率の低下に喘いでいます。

この現状をグループの総帥だった信隆氏が草葉の陰から覗き見れば・・・さぞ激怒することでしょう。

なお信隆氏の支配から宏明氏解任、ライブドアによる株買い占め騒動に至るフジサンケイグループの動向を知りたい方には、この書籍をお勧めします。

『メディアの支配者』(上・下) 中川一徳・著 講談社文庫・刊


     


一代でメディアの支配者となった一方、〝父子(フジ)テレビ〟と揶揄され公共電波のファミリー支配という批判も浴びた、鹿内一族の光と陰・・・講談社ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞した本書は、読み応えがありますョ。



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