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恩 人

今でこそ日本人メジャーリーガーが何人も誕生するなど日米プロ野球の交流は活発に行われていますが、昔はそれほどではありませんでした。

そんな中でアメリカ・ペロビーチで巨人がキャンプを張ったり、ドジャーズ戦法を導入してV9を達成するなど大きく日本のプロ野球にアメリカのベースボールが浸透するキッカケを作り、日本プロ野球界の発展に大きく寄与した〝恩人〟といえるのが、

 生原 昭宏 

今日は、私が大学時代野球をやっていた頃、よくスポーツ新聞・ニュース等に〝アイク生原〟という名前で登場していた、この方の命日にあたります。


         


生原氏は1937(昭和12)年、校長先生の父と体育教師の母との間の5人兄弟の長男として福岡県田川郡で生まれました。

地元・田川高校から早稲田大学に進学し野球部ではその生真面目さを買われて新人監督を務め、卒業後25歳で亜細亜大学野球部の監督に就任します。

在任4年間でチームを東都リーグ3部から1部に昇格させた生原氏は東京五輪の翌1965年、更に指導法を磨くべく早大野球部関係者の紹介で当時ドジャーズのオーナーだったウォルター・オマリー氏を頼って渡米。

同球団傘下のマイナー・チームに採用されました。
・・・しかし、それは無給(!)の雑用係として。

大学野球部監督のポストを捨てること自体もったいないと思うのですが、いくら渡米したかったとは言え雑用係とは・・・相当の覚悟がなければできない決断だったと思います。

しかし懸命に働き周囲からアイゼンハワー大統領と同じ〝アイク〟という愛称で呼ばれるようになっていた生原氏の仕事ぶりを、ちゃんと見ていた人がいました。

それはウォルター氏の息子であるピーター・オマリー氏。

父に代わってオーナーに就任した彼は、1982年に生原氏を球団のオーナー補佐兼国際担当に抜擢。

巨人などのベロビーチ・キャンプの世話役をしたり、野球留学してくる若手日本人選手の面倒を見るなど活躍。

あのドラフト会議の司会を務め、球界きっての大リーグ通と言われたパンチョ伊東氏も世話になった1人だったとか。


後にメジャー行きを目指す選手が増えたことで代理人と称する日本人が登場しましたが、莫大な契約金を獲得すべく暗躍(?)した彼らと違い、生原氏は純粋な世話人として選手たちに接しました。

指導者を目指して渡米した生原氏は、日米プロ野球の橋渡し役になったのです。

生原氏の誠実な人柄や仕事に対するひたむきさは、後に奥様が上梓したこの書籍でよく分かります。

 『ドジャーズと結婚した男  夫・アイク生原の生涯
           (生原 喜美子・著 ベスボールマガジン社・刊)


       


おそらく直接・間接的に生原氏の世話になった野球人の数は、巨人の長嶋・王、中日の星野、ロッテの村田各氏をはじめ4桁に上るはず。


その貢献度がいかに大きかったかは、プロ野球選手でも監督・コーチでもなかった彼が2002年に特別表彰で日本野球殿堂入りしたことでも分かります。

将来的には再び日本に戻って指導者になりたい気持ちがあったそうですが、残念ながらその願いは叶いませんでした。

今から23年前の今日・1992年10月26日・・・がんに侵された生原氏は55歳で天に召されてしまったのです。

入団して4年間芽が出ず、背水の陣でアメリカ留学をした際に生原氏からチェンジ・アップやスクリューボールの投げ方を伝授されたことで生き返り、見事200勝投手となったのが、つい最近50歳で引退を発表した中日の山本昌投手。

生原氏の葬儀の際は棺の前で人前を憚らず泣き崩れたそうな。

留学した選手たちにとっては、まさに父親的な存在だったのでしょうネ。

ドジャーズに野茂投手が入団した時には既にこの世にいなかった生原氏ですが、きっと彼の活躍を天国から手を叩いて喜んでいたことでしょう。

今はかつての上司であり友人でもあった先代会長ピーター・オマリー夫妻の墓の隣で眠る〝ドジャーズと結婚した男〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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