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変 色

今からちょうど40年前の今日・1975(昭和50)年10月15日・・・赤ヘル軍団でお馴染みの

 広島東洋カープ

が球団創設25年目にして初のリーグ優勝を飾りました。

1949(昭和24)年秋、日本野球連盟がセントラル・パシフィックの2リーグに分裂、両リーグとも組織の拡張を目指す中、広島選出の衆議院議員・谷川昇氏が中心となって

「原爆被害から復興を目指す市民のシンボル的存在に」

として設立されたのが、同球団のルーツ 『広島野球倶楽部』 でした。

ジャイアンツとかタイガース、ライオンズなど強者をイメージするチーム名が多いのに、敢えて〝鯉〟にしたのは、広島市内を流れる太田川が鯉の名産地であり、また広島城が別名・鯉城と呼ばれていたから。 


※ただし最初は他球団同様〝カープス〟と名付けられたそうですが、「“CARP ” に複数形はない」 という市民からの指摘で、現在のカープになった・・・というオチがついてますが。


しかし大企業がバックにつかない弱小球団ゆえ経営は厳しく、選手の給料遅配や遠征費が払えぬ状況となり、翌1951年3月14日には役員会で球団の解散を決定。

しかしここで広島市民が立ち上がり、酒樽を持ち出して〝樽募金〟を始め、球団存続に必要な資金400万円を集めたこともあったとか。

しかし球団創設以来1974年までの24年間、3位以上のAクラス入りしたのはたったの1度・・・まさに〝万年Bクラス〟が続きました。

そして1975年のシーズン・インに際し、同球団には大きな変化が2つありました。

ひとつは、日本球界初の外人監督ジョー・ルーツを起用したこと。

彼は非常に有能な監督だったのですが、シーズンが始まったばかりの4月27日・対阪神戦で判定を巡って猛抗議を行い、試合ボイコット騒動を引き起こします。

これに重松球団代表が異を唱えたことに 「現場介入だ」 と腹を立てた彼は、サッサと辞任。

5月3日に監督に就任したのが、後に名将といわれることになる古葉竹織コーチ。


この監督交代が功を奏したのか、いつもは鯉のぼりの季節が終わると失速そていたチーム成績は一向に落ちず。

夏場のオールスターでチームの主軸だった山本浩二・衣笠幸雄両選手が共に1試合2ホーマーを放つなど大活躍。

その勢いがシーズン後半になっても落ちず、10月15日の巨人戦に勝利して初優勝を決めました。

実はこの年、巨人は長嶋茂雄監督就任1年目にして球団史上初の最下位に沈んだ最悪のシーズン。

巨人ファンだった私は、後楽園球場でファンがグラウンドになだれ込む中、テレビで古葉監督の胴上げを唇を噛みながら観ていたことを憶えています。


    

     地元・広島市民球場でファンにペナントを披露する広島ナイン


平和大通りで行われた優勝パレードにはファンが当時の広島市の人口の1/3以上・・・約30万人も集まったといいますから、いかに熱狂的な歓迎を受けたかが分かります。

設立当初から応援し募金もしたファンには、これぞ夢にまで見た瞬間だったことでしょう。

あっ、ひとつ大事なことを忘れていました。

シーズン当初にあったもうひとつの大きな変化・・・これ、何だったと思いますか?

正解は・・・ヘルメット(と帽子)の色なんです。

今でこそ広島カープ=赤ヘル軍団というイメージが定着していますが、1974年まで同球団のヘルメットの色は〝紺色〟でした。驚き顔 ヘェ~

ルーツ新監督が打ち出した〝野球に対する情熱を前面に出そう〟というスローガンのもと、燃える闘志を表す意味をこめて赤に変えたのだそうな。

(※本当はストッキングやアンダーシャツも赤にしたかったのですが、球団に予算がなかったため出来ず。 全て赤にしたのは1977年からでした。)

結果的にこのチェンジ・カラーは大成功・・・もし会社やチームの成績が低迷から脱却できない時は、思い切ってカンパニー・カラーやチーム・カラーを変えると効果絶大かも。

もっとも、こと広島カープについては、今更赤ヘル軍団のイメージは軽々に変えられないと思いますけどネ。うー



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