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主 将

あと5年で2020年の東京五輪が開幕します。

1964年の東京五輪を白黒テレビで手に汗握りながら観戦していた私は当時5歳でしたが、再び東京でのオリンピックを観られるなんて、夢のよう。

その51年前のオリンピックでは多くの日本選手が金メダルを獲得しましたが、中でも注目を集めたのが、〝東洋の魔女〟と謳われた女子バレーボール。

「オレについてこい」という名文句で有名だった鬼の大松監督の猛練習に耐え抜いた選手たちが悲願の金メダルを獲得したテレビ中継は、視聴率66.8%(瞬間最高で85%!)という現在では有り得ない数字を叩き出し、日本中が熱狂しました。

今日は、その栄光のチームを率いたキャプテン、

 中村(旧姓:河西) 昌枝 さん

の命日・三回忌にあたります。


       


1933(昭和8)年に現在の山梨県南アルプス市に生まれた河西さんは、174cmの長身を見込まれてスカウトされ、地元の県立巨摩高等学校を卒業した1952年春、日紡・関ヶ原工場に入社。

その僅か1ヶ月後に同社・足利工場に転勤すると、1953年に同社が各工場に点在していたバーレーボールチームを統合し、日紡貝塚が誕生。

河西さんも同チームを率いる大松監督の元に移籍することに。

1957年から彼女がキャプテンになった同チームは
猛練習の末に回転レシーブを身につけ、そのまま全日本チームとして1961年の欧州に遠征して22連勝、〝東洋の魔女〟と言われるように。

そして翌1962年の世界選手権に出場すると、当時世界最強といわれたソ連チーム相手に勝利を収め、見事初優勝。

団体球技において世界選手権で日本が優勝したのは、これが史上初という快挙でした。

この時のソ連戦で、主将の河西さんは第一セットを奪われ意気消沈するチームメイトの目の前で、前田団長に

「あの程度の相手なら、必ず勝ちます!」

と言い放ち平然とプレーを続けたといいますから、生まれながらにしてキャプテンシーを持っていたのでしょうネ。


しかし当時29歳だった河西さん・・・実はこの優勝を花道に引退し結婚するつもりだったとか。

ところが2年後にオリンピック開催を控えた日本では、それを許す雰囲気ではなかったといいます。

結局国民の期待を一身に担い現役を続けることにした河西さんは、時として日付が変わる真夜中まで続く猛練習に耐え、見事金メダルを獲得したのです。

優勝直後のインタビューで、「今何をしたいか?」 と問われた彼女は

「父の墓参りに・・・」

と言いかけ、後は涙で言葉が出なかったとか。

それもそのはず、病気でお父様が入院したもののキャプテンとして遠征や練習を休むわけにいかず、殆ど見舞いに行けぬままオリンビックの3ヶ月前に亡くなられたお父上の死に目にも会えなかったのですから。

     

          大松監督             河西主将


オリンピックの3ヶ月後に日紡を退社して現役を引退した彼女は、自衛官の中村和夫氏とめでたく結婚。

しかしその後バレー界との縁は深く、3人のお子さんに恵まれた彼女はママさんバレーの普及に尽力。

2003年には日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任すると、翌年のアテネ五輪ではバレーボールの日本女子代表の団長も務め、2008年にはバレーボール殿堂入りも果たしました。

そして2013年10月3日・・・自らも招致活動に携わっていた2020年の東京五輪招致決定を目にしてから僅か1ヶ月後、脳出血のため80歳で天に召されたのです。

河西さんには、こんな著書が。

『おかあさんの金メダル』 (学習研究社・刊)


       


これを読むと、〝魔女〟と呼ばれた彼女も、普通の女性と同じ悩みを抱えていたことが分かります。

しかし中村氏との間を取り持ったのが時の総理大臣・佐藤栄作夫人で、お見合いしたのが総理の私邸、そして仲人が佐藤栄作首相だったとは驚きました。

174cmと長身の彼女は自分より背の高い男性を望んでいたのに、結局は2cm低い中村氏と結婚することになるなんて・・・人生って面白いですネ。

かく言う私も、運動神経が良くて料理が上手な女性を望んでいたのに、結局運動神経ゼロの女王様と結婚し、毎日朝食を作る羽目になりましたが。うー

あっ、私のことはどうでもいいですネ。

バレーボールとオリンピックに人生を捧げた名キャプテンのご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3




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