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古 学

今日は、あの吉田松陰をして〝先師〟と言わしめた、江戸時代前期の儒学者であり山鹿流兵法及び古学 (後世の解釈に頼らず、論語などの経典を直接実証的に研究する学問) 派の祖、 


 やまが そこう

 山鹿 素行


の命日・没後330周年にあたります。

〝山鹿〟という名前、どこかで聞き覚えがありませんか?

そう、忠臣蔵・討ち入りの際に大石内蔵助が打ち鳴らしたと言われる〝山鹿流陣太鼓〟・・・彼は赤穂藩と非常に縁が深い学者でした。


(※ただしその陣太鼓は歌舞伎の世界での創作であり、実在していません。)

素行は1622(元和8)年に山鹿貞以の子として現在の福島県会津若松市に生まれました。

6歳の時に父親が奉公先の改易によって浪人になったため、町医者を開業すべく家族共々江戸へ。

その頃から親に書を読まされた彼は何と8歳の時には四書五経などを暗記し、その翌年には幕府のブレーンだった林羅山にその才能を認められて弟子入りしたといいますから、驚くべき秀才。

有能な師についた素行の才能は開花し、15歳の頃には大人の武士たちに 『論語』・『孟子』 を講釈し、更に兵学も修めて20歳過ぎで 『山鹿流兵学』 を確立します。


その天才ぶりを耳にした各藩から誘いがあったものの安易に仕官せず、結局29歳の時に播州赤穂・浅野内匠頭長直(※殿中・松の廊下で刃傷沙汰を起こし切腹した長矩の祖父)に1千石という破格の待遇で賓師として迎えられます。

更に3代将軍・家光も彼を幕府で召し抱えようとしましたが、その前に家光が亡くなったためその願いは叶いませんでした。


これが運命の分かれ道になったのか、9年間赤穂藩に籍を置いた後江戸に戻り、学者として身を立てていた彼が44歳の時に書いた『聖教要録』 が当時幕府公認の学問・朱子学を批判したとして幕府の重鎮で2代将軍・秀忠の子だった保科正之が激怒。

かつて世話になった赤穂藩に配流されてしまいます。

(この時点で打ち首にならなかったことが、彼の学者としての力量がずば抜けて優れていたことを逆に示しているとも言えましょうか。)

        


幕府の温情(?)でかつての仕官先に再び戻った素行は約10年を赤穂で過ごし、この間いよいよ研鑽を積んで『中朝事実』・『武家事記』・『配所残筆』など数々の書を記しました。

吉田松陰が200年も前に生きた素行を先師と仰いだのは、自分と同じく幕府に身柄を拘束された中で研鑽を積んだことに尊敬の念を抱いたからなのかも。

またこの配流中8~17歳だった大石内蔵助も 「大義に行きよ」 という素行の教える武士道に接したことが、後の仇討に繋がったと言ってよいでしょう。

家光の二十五回忌で赦免され1675(延宝3)年に江戸に戻った素行は、その後も兵学などを弟子に10年間教え続け、1685(貞享2)年9月26日に64歳で天寿を全うしました。


     

        『山鹿素行の思想』(立花 均・著 ぺりかん社・刊)


彼の提唱した武士道は〝死ぬことと見つけたり〟という 『葉隠』 的なものとは違う〝人倫の道を自覚しそれを実現することを武士の本分とする〟という儒教的なもの。

しかし私はその武士道よりも、彼が当時勢力が強かった中国(明朝)が優れているという中華思想に反論し、何度も王朝が変わった中国に比べ、

「日本ほど連綿たる歴史と優れた風土・国体を持った国は他にない。」

と母国を高く評価した点に注目したいのです。

乃木希典元帥が学習院々長時代、若き昭和天皇にその素行の思想が記された 『中朝事実』 を読むよう勧めたことからも、その想いの深さが伺えます。

その2日後に執り行われた明治天皇の葬儀の日に、乃木元帥は奥様と共に殉死していますから、ある意味素行の教えが昭和天皇に対する乃木元帥の〝遺言〟といえましょう。

敗戦後アメリカによる自虐教育を受けた日本国民の誇りを取り戻すためにも、今一度山鹿素行の教えに脚光が当たることを願って止みません。



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