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カミソリ

様々な業界・世界には必ず〝カミソリ〟と呼ばれる切れ者がいますが、こと政界に於いてはこの方の右に出る者はいないでしょう。

今日はその、戦中・戦後の昭和時代そして平成にかけて官僚・政治家として活躍した


 後藤田 正晴 


の命日・没後10周年にあたります。


       


後藤田氏は、1914(大正3)年に現在の徳島県吉野川市に生まれました。

江戸時代には庄屋を務めた地元の名士の家系で、父親は徳島県議会議員などを務めた政治家でした。

しかしその父親と母を7歳・9歳の時に亡くすと、姉の嫁ぎ先に預けられます。

旧制水戸高等学校から1935年に東京帝大・法学部に入学、早くから官吏を志望していた彼は、1939年に内務省に入省。


しかし1940年には陸軍に徴兵され、1945年の終戦時には台湾で中国政府軍にとらえられ、1年近く捕虜生活を経験・・・この経験がその後の戦争反対を強く主張するバックボーンになりました。


復員後内務省に復帰した彼は、翌年警視庁保安部に配属後は主として警察畑を歩み、一旦自治庁長官官房長・税務局長を務めたものの、再び警察庁に復帰。

長官官房長・警備局長・警察庁次長を経て、1969(昭和44)年に警察庁長官に就任。

在任時はよど号ハイジャック事件、あさま山荘事件など多くの歴史的事件に遭遇し、対処に追われました。

(この時部下だったのが、後に多くの書籍で当時の内情を明かした佐々淳行氏。)

そして1972(昭和48)年に長官を辞任した直後の彼を内閣官房副長官に迎えたのが、あの田中角栄氏でした。

その後彼は田中氏の後押しを受けて政界に進出。

一度は落選したものの、1976年の衆院選に田中氏の政敵・三木武夫氏と同じ徳島全権区から出馬し次点で当選すると、以後20年・7期にわたって衆院議員を務めます。

そして1978年の自民党総裁選で田中氏の懐刀として大平正芳氏に勝利を呼び込んだ彼は、当選2期目という異例の早さで大平内閣に国家公安委員長・北海道開発長官兼務の自治大臣として入閣。


更に中曽根内閣では内閣官房長官に任命されると、その後も総務庁長官など要職を歴任しつつ、3次・5年に渡った同内閣の中で唯一最後まで閣僚として留まりました。

その後田中角栄氏が倒れ竹下内閣が成立すると一旦閣僚ポストからは遠ざかりますが、宮沢内閣では法務大臣や副総理を歴任。

総理にもはっきり物申すご意見番として、政界に大きな影響を及ぼし続けました。

政界引退後もテレビ番組に出演するなどして自論を展開し、また時の政権に元部下の佐々氏などを派遣して意見を述べていた後藤田氏が肺炎により91歳でこの世を去ったのは、2005年9月19日。

後藤田氏の自著・『情と理』 (講談社・刊)は、その間の政権内幕が語られており、当時を知る方にはなかなか読み応えがあります。

     


後藤田氏の言葉として印象的なものを、2つご紹介しましょう。

ひとつは、中曽根内閣時に内閣官房6室制度が創設された際に、それぞれの室長に与えた〝後藤田五訓〟。

 ◆ 出身がどの省庁であれ、省益を忘れ国益を想え
 

 ◆ 悪い本当の事実を報告せよ

 ◆ 勇気を以って意見具申せよ

 ◆ 自分の仕事でないと言うなかれ

 ◆ 決定が下ったら従い、命令は実行せよ
これ、全ての組織に当て嵌まる金言ですょネ。

(もっとも、これは佐々氏が著作で明らかにしたもので、後藤田氏本人は憶えていなかったそうですが。)あせあせ


それからもうひとつは、昨日拙ブログでご紹介したO-157食中毒事件の時にかいわれ大根をムチャ食いした菅直人氏に関して。

「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。 

アレは運動家だから統治ということが分からない。 

もしアレを総理にしたら、日本は滅びる。」

これも、正鵠を得ています。

しかし残念ながら、彼は総理の椅子に座ってしまいましたが・・・。

田中氏をはじめ多くの有力政治家が後藤田氏を重用したのは、彼に集まる警察の情報を高く評価し、あるいは恐れての抜擢だったのでしょうが、その見識眼も超一流だった証と言えましょう。

日本のアンドロポフともいわれた政界きっての情報通・懐刀だった切れ者のご冥福を、改めてお祈り致します。笑3




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