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詰め腹

後世に名を残す武将の子供たちの中には、戦乱・下剋上の時代に生まれた故悲惨な最期を遂げた者が少なくありません。

本能寺の変によって父・織田信長を失うと同時に自らも自刃して果てた長男・信忠や、父・豊臣

秀吉が後を託した德川家康によって滅ぼされた秀頼も然り・・・。

しかしその徳川家康の長男、

 徳川 信康


も、彼ら以上に過酷な運命を辿ることになりました。

今日はこの若き武将が弱冠21歳で切腹して果てた命日にあたります。


德川(松平)信康は1559(永禄2)年、家康と彼の正室で今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)との間に駿府で生まれました。


幼少より彼は今川義元の人質として母と共に駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換によって家康の居城・岡崎城に戻りました。

そして1562(永禄5)年5月、今度は父・家康と織田信長が清州同盟を結んだことで、彼はわずか9歳にして信長の娘・徳姫と結婚、2人は岡崎城で暮らし始めます。


更に同年9月に元服し、松平次郎三郎信康と名乗るように。

信康は若い頃から勇猛果敢で、14歳で初陣を飾ると1575(天正3)年の長篠の合戦には徳川軍の大将として参戦。

その後も武田氏との合戦では数々の武功を上げ、家康も一目置くほどだったとか。


しかしその信康は、1579(天正7)年9月15日、その父・家康の命により切腹させられてしまったのです。

将来を嘱望された若武者に、一体何が起きたのか?


         


その原因は、徳姫との結婚にある・・・とされています。

この政略結婚を面白く思わなかった母・築山殿と徳姫の折り合いが悪く、徳姫が父・信長に義母・築山殿と夫・信康が甲斐の武田勝頼と内通していると手紙でチクッた、というのです。

もともと信康の勇猛さを怖れていた信長は、築山殿と信康を処分するよう家康に厳命。

それを受けた家康は妻・築山殿を護送途中に襲撃・暗殺させ、更に長男・信康に切腹を命じた・・・というのです。

いくら信長の命とはいえ、お家安泰のために妻と長男の命を奪うことになろうとは・・・戦国武将の辛さは想像を絶します。

しかもこの勝頼との内通説は信康本人も否定しており、また築山殿にも武田氏と内通するほどの政治力があったとは思えず、疑問が残ります。

この通説とは別に、家康自身が信康を嫌っていたというもの、また派閥抗争説などが存在しますが、いずれも強い根拠はありません。

確かなのは、嫁・姑の中が悪かったことだけ。ダメだぁ顔

もし女の闘いに巻き込まれ20歳そこそこで腹を切らされたとしたら、信康は死んでも死にきれなかったことでしょう。

しかしその命と引き換えに父・家康は強かに戦国時代を生き残り、盤石な徳川幕府を築けたのですから、9歳で結婚・元服、21歳でこの世を去るという、一般人の2~3倍速で駆け抜けた彼の生涯も無駄ではなかった、とも言えましょう。

各々方、くれぐれも嫁と母親の関係には気を使いましょうゾ! うー



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