FC2ブログ
世 外

今日は、伊藤博文らと共に明治維新推進の立役者として活躍し、伊藤博文・山縣有朋と並んで〝明治の三元老〟と呼ばれた政治家・財界人、

 井 上 馨

の命日・没後100周年にあたります。

1836(天保6)年に長州藩士・井上光享の次男として現在の山口市で生まれた彼は、兄と共に藩校・明倫館に通い、藩主・毛利敬親の参勤交代に随行し江戸入り。


そこで生涯の朋友となる伊藤博文と出会いました。

当初彼は尊王攘夷派で、1862(文久2)年12月には伊藤や高杉晋作らと共にイギリス公使館焼き討ち事件を起こします。


しかし翌年、藩に嘆願して(後に長州ファイブと言われる)伊藤博文・井上勝・遠藤勤助・山尾庸三らと共にイギリスに密航。

そこで圧倒的な軍事力・国力の違いを見せつけられた彼は、倒幕・開国派へと思想を大転換。

1864(元治元)年に下関戦争が勃発すると急遽帰国し、イギリスとの講和に尽力しました。

そして同年の第一次長州征伐の際には対立いる藩士から襲撃され瀕死の重傷を負います。

この時あまりの深手に彼自身が兄に介錯を頼んだそうですが、母親が身を挺してこれを止めたおかげで一命を取り留めたとか。

これぞ母の愛というべきか、それとも彼が神に選ばれし者だったのかもしれません。

その後も開国を主張し命を狙われた彼は、別府に逃れ療養。

1865(慶応元)年に長州に戻り、坂本竜馬の仲介で薩長同盟を結ぶと第二次長州征伐で今度は幕府軍に勝利。

明治維新後は長崎府知事、大坂の造幣局知事、更に通商司知事を歴任し、1871(明治4)年には大蔵大輔に就任、明治政府の中枢を担いました。

        


ところが岩倉使節団の渡欧中に起きた財政問題の責任を取って1873年5月に辞職し、一旦政界から身を引くことに。

実業界に転身した彼は、三井物産の前身・先収会社を設立。
(その後日本郵船や小野田セメントなど殖産産業の発展に尽力しています。)

しかし伊藤博文に請われて1875年に再び政界に戻った彼は、対立していた大久保利通・木戸孝允ら対立する有力者の手打ちとなった大阪会議を実現。

その後も日朝修好条約の締結や不平等条約の改正に尽力、大蔵大臣など要職を歴任すると共に日清・日露戦争という激動期の日本を支えました。

経歴からすれば総理大臣に就任しても良さそうなものですが、時と人の運に恵まれず遂に彼はトップの座には就けず・・・しかし1915(大正4)年9月15日に79歳で亡くなるまで、元老として終生政界および三井財閥に強い影響力を及ぼしました。

そしてその影響力は政治・実業界だけに留まらず、日本文化にまで及んでいます。

そのひとつは、鹿鳴館の建設。

大坂造幣局知事時代、全職員にちょんまげを切り洋装を強制させた彼は、日本の西洋化に積極的でした。

しかし決して日本文化を否定したわけではなく、一方で茶道にも造詣が深く明治天皇に献茶したことも。

ただし美術品収集の趣味が高じ、茶会で気に入った茶器や掛け軸があると勝手に持っていく悪い癖があり、それを聞きつけた明治天皇が井上の催した茶会に出席して逆に飾ってあった掛け軸をもらおうとして彼を狼狽させ嗜めた・・・なんていう逸話も残っています。


義理人情にも厚く、自ら〝世外〟(せがい=俗世間から逸脱した境涯)という号を用いた粋な明治人の冥福を、あらためてお祈り致します。笑3
スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック