茶道をたしなまない方でも、この人物の名はご存じのはず。
四畳半以下の茶室を用いた簡素な茶の湯・・・〝わび茶〟を完成させた、
千 利 休
今日は、この〝茶聖〟ともいわれる伝説的茶人の命日・没後430周年にあたります。
利休は1522(大永2)年に和泉国・堺の有力な魚問屋に生まれた町人でした。
若くして茶の湯に親しんだ利休は、17歳で北向道陳、19歳で武野紹鴎という当時一流といわれた茶人に師事。
(武野紹鴎は村田珠光によって始められたわび茶を進化させ、草庵の茶の湯を確立。 更に彼が提唱する禅の要素を取り入れた〝茶禅一味〟は、利休を始め多くの茶人に影響を与えました。)
紹鴎の元で修業を積んだ利休は、茶人でもあった堺の豪商たちと交流を深めます。
そしてちょうどその頃天下統一を目指す織田信長も茶道に興味を持ち、堺を直轄地にすると同時に利休を茶頭として召し抱えます。
しかし1582(天正10)年に起こった本能寺の変により信長が没すると、豊臣秀吉が茶堂として彼を重用。
次第に彼の側近として政治的にも力を持つようになります。
1585(天正13)年に正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、この際に宮中参内するため居士号〝利休〟を勅され、秀吉の依頼により黄金の茶室の設計も行いましたが、本来彼が目指すわび茶の完成・・・草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用などにも力を注ぎました。
ところが1591(天正19)年、秀吉の逆鱗にふれた利休は突如堺に蟄居を命ぜられます。
そして前田利家・細川忠興ら弟子でもある大名たちの助命嘆願も叶わず、京都に呼び戻された利休は同年2月28日に聚楽屋敷内で切腹し、70年の生涯に不本意な幕を閉じました。
その原因については、大徳寺三門改修に当たり利休自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせたという説がありますが、他説もありはっきりしていません。
この半年後、秀吉は淀君との間に生まれ後継者に指名していた鶴松(3歳)を病気で失い、朝鮮出兵や秀次を切腹させるなど徐々にご乱行が目立つようになり衰えていくのですが・・・。
いくら信任した人物だったとはいえ、町人出身の利休を切腹させ首を晒すとは尋常なことではありませんから、秀吉は既に認知症を患っていたのもしれません。
※秀吉に関する過去記事は、こちら。(↓)
可愛さ余って憎さ百倍・・・古今東西、長年仕えた腹心を遠ざけたり殺してしまう例は多々あります。
権力者と付かず離れずうまく立ち回るのは至難の技、という事なのでしょうか?
あらためて千利休のご冥福をお祈り致します。