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始 祖 

日本美術史上最も有名な流派といえば、狩野派でしょうか。

その狩野派を代表する同派4代目の絵師・狩野永徳については、過去に拙ブログでも記事にしました。(↓)



今日は、その狩野永徳と同時期に活躍し、狩野派に対抗する長谷川派を立ち上げた、

 長谷川 等伯

の命日・没後410周年にあたります。


等伯は1539(天文8)年に、現在の石川県七尾市で能登藩の下級家臣・奥村文之丞宗道の子として生まれました。(狩野永徳の4歳年下)


そして幼少時に染物屋を営む長谷川宗清の養子になりましたが、その宗清が雪舟の弟子・等春の門人だったことから、絵画に親しむ環境に育ったそうな。

10代後半頃から父・祖父から絵の手ほどきを受けていたと思われ、長谷川家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画・肖像画を数多く描いたようです。

20代半ばでは既に熟達した作品を描いていた等伯は、33歳の頃の養父母を相次いで亡くしたことから、郷土の菩提寺・本延寺の本山・本法寺を頼って妻子共々上洛。

一時は狩野派・狩野松栄に学んだものの、千利休や日蓮宗の僧侶・日通らとの交流を通して宋・元の絵画に触れるなどして、独自の画風を確立していきました。

千利休の仲介により、それまで狩野派の牙城であった大徳寺などの大仕事を請け負うように。

 
                
大徳寺山門天井画


等伯が利休に近づいたのは、競争相手だった狩野永徳と親しくなかったからだったとか。


永徳の記事にも書きましたが、彼等2人は相当お互いをライバル視していたようです。


       

         利休没後に等伯が描いた『利休居士像』(重文)


1590年には秀吉が建立した仙洞御所対屋の障壁画の仕事を請け負うべく画策したものの、狩野永徳に巻き返されたことも。

しかしその1ヶ月後に永徳が亡くなると、翌年には秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺・祥雲寺(現・智積院)の障壁画制作を等伯が受注。(↓)

 

                
楓図(かえでず)・国宝 


これを大変気に入った秀吉から知行200石を与えられたことで、長谷川派は狩野派と肩を並べることに。

しかし好事魔多し・・・同年に支援者の利休が秀吉に切腹させられると、その2年後には跡継ぎとして育てた長男・久蔵に先立たれてしまいます。

その悲しみを乗り越えて・・・というか振り切るかのように、等伯はこの年から2年の歳月をかけて自らの代表作である水墨画の傑作 『松林図屏風』(国宝) を完成させています。(上・右隻 下・左隻)

    


 


その後、1599年には本法寺寄進の『涅槃図』から〝自雪舟五代〟と落款に冠し、自身を雪舟~等春~法淳(養祖父)~道浄(養父)~等伯と雪舟から自らの養祖父・養父を間にして5代目であると宣言。

これが功奏して大寺院からの制作依頼が次々と舞い込み、当代一流の絵師としての地位を盤石のものとしました。

65歳の時には制作中に高所から転落し、利き腕の右手を負傷したようですが、それでも制作意欲は衰えず。

1610(慶長10)年に徳川家康の要請により次男・宗宅を伴って江戸入りしましたが、その途上で発病し、江戸到着後わずか2日後の同年2月24日に70歳でこの世を去りました。

当時としては長寿だったため多数の作品を残し、また宗宅をはじめ実子をそれぞれ絵師として長谷川派を継承させているのは、さすがといえましょう。


ただし狩野派よりも色彩感覚に優れ斬新な意匠を特徴とする長谷川派も、始祖・等伯の没後は彼を超える優れた画家は輩出できませんでしたが・・・。


あの狩野永徳が一目置いた程の等伯の作品、是非美術本やネット検索で味わってみてください。


    

      『長谷川等伯 生涯と作品』(黒田泰三・著 東京美術・刊)


 


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